M 松本さんがプロデュース、若松さんはco-プロデュースという形は、翌年のアルバム『Strawberry Time』にも続き、タイトル曲をレベッカの土橋安騎夫さんが作曲しています。大江千里さんや米米クラブも参加してソニーのスターが大集合しワクワクしました。土橋さんには若松さんが直接アドバイスされたと聞きましたが。
W それは半分本当。松本さんを通じて、土橋くんに「自由に曲を作って新しい世界を築いてほしい」と伝えてもらいました。聖子の既存のイメージにとらわれていると、新鮮な作品が生まれなくなる。
M その結果、聖子さんらしい平和を願う曲『Strawberry Time』が完成したんですね。
W 実にいい曲です。大村雅朗さんのアレンジも抜群にいい。イントロからかっこいいし、いま聴いても色あせない。
M さらに翌1987年にはデヴィッド・フォスターと組んで15thアルバム『Citron』を発売。
W 英語詞もあり再び世界に飛び出したアルバム。新たな方向性を現場スタッフも模索してくれていたので。
M そもそも休業明けの3部作は、1985年末頃に聖子さんから電話があって、表参道での打ち合わせからスタートしているんですよね?
W 結婚休業して少し過ぎた頃。具体的な復帰の話をしないままだったけど、自分は必ず聖子がもう一度歌うとわかっていた。聖子にとって、歌うことは生きること。それくらい歌が好きだからね。
M その後、80年代末に若松さんは営業統括部長となり、現場を離れてソニーミュージックアーティスツの社長(その後会長)になられました。聖子さんは、さみしかったのでは?
W 悩みがあるときはよく電話が来ていました。アメリカからかかってきたこともあったね。その後、私がソニーを退職して事務所を立ち上げたタイミングで聖子から再び連絡があり、今度は彼女のマネジメントを3年手がけました。松本隆さんとさらに再び組んだアルバム『永遠の少女』の頃です。
M いま若松さんから聖子さんにメッセージを送るとしたら?
W これは、あらゆる仕事に通じることですが、常に新鮮な気持ちでいてほしいですね。デビュー当時のようなね。あの頃は全てシンプルでした。歌が大好きな10代の高校生と、音楽プロデューサーとして必死な私がいて。歌詞は三浦徳子さんにお願いしよう、曲は『アメリカンフィーリング』の小田裕一郎さんにしようってね。そうしたら、一瞬でみなさんに「松田聖子」が愛されるようになっていった。
M 自分も常に新入社員のように気持ちで仕事ができたらと毎日思っています。なんか関係ないですけど(笑)。
W いやいや、そんなことない。何歳になっても新人の気持ちでいられたら、永遠に成長していける。
M 『裸足の季節』の気持ちで?
W そう。昔からのファンの方ももうみなさん大人です。昭和、平成、令和と駆け抜けて誰もが先行きが不安。聖子にはいまそんな心の痛みをスッと癒せるような曲を歌ってほしいな。でも私も含めて長年やってると、新鮮な気持ちでいるのはなかなか難しい。
M デビュー当時私は中学生でしたが、聖子さんの曲を聴くと一瞬であの頃の気持ちに戻れます。
W 曲自体に永遠の魅力があるからね。そう考えると歌の力ってすごい。そうだ!今回『松田聖子の誕生』(新潮新書)という本を上梓したので、ぜひご覧ください。聖子の80年代の楽曲やデビュー前後の話もたくさんあります。今の時代に読んでいただきたい1冊になりました。
M 楽しみです!この連載もさみしいですが今回が最終回。ここで失敗談を一つ披露すると、実は当初カメラマンがA面B面を知らなくて、レコードのB面だけ撮影していたことがあったんです。裏表に違う曲が収録されていることが理解できずに…。
W (笑)配信の時代だからね。でもだからこそ、いい曲は時代も国境も超える。聖子は今『裸足の季節』でデビューしても大ヒットすると思います。未来に向かっていく強さは、昔も今も変わらないから。みなさん、今までありがとうございました!
M 本当にありがとうございました。近いうちに番外編をぜひ! 若松さん、聖子さんはずっと私たちの「希望」なんです。青春そのものなので。たくさんの素敵な曲を残していただいたこと、幾多のエピソードを教えていただいたこと、心から感謝いたします。
W こちらこそ。またお会いしましょう!