これから人を殺す。この映画で私は、柄本佑と染谷将太の顔に一瞬、そんな表情を見てとった。でもそれはおかしい。そんな映画ではないのだ。
夏の夜。函館の郊外。すこしの海の匂い。僕(柄本佑)と静雄(染谷将太)が、映画館から出てくる。わかれると、僕が知り合いの男女とすれ違う。女が「あること」をして、僕はそこで、はじまりを感じる。そして、僕と静雄と佐知子はこの夏を一緒に呼吸することになる。そんな映画だ。
「あること」は、それからほどなくして、佐知子が言うところの「ちょうどいいセックス」を楽しむようになるそのはじまりとはとても思えない、ささいな動きだ。でも、はじまる。
はじまって、夏の真ん中で佐知子とキャンプを楽しむことになるのは、僕ではなく静雄。しかし三角関係とか恋愛の共有という説明は、的外れだ。
クラブのシーンがある。石橋静河演じる佐知子は、フロアで気持ち良さそうに動かした身体を、僕にも、静雄にも寄せる。満たされた顔で。
ディスコやクラブのシーンが、つくりものになってないことはいい青春映画の条件だ。没入があること。音楽に潜る。自分に潜る。没入した2人が、深い水の底で手をつなぐ幸福。三宅唱監督は、このシーンに確信を持っていると感じた。いい。
けれど、3人の外側には社会があって、そこは不穏だ。静雄の母親、僕と佐知子が働く書店の同僚。暗い落とし穴は、ぽかんと口を開けていて。
この映画で決定的な暴力は描かれない。でも、3人がだらしなく飲んで笑いあう、僕と静雄が同居するアパートの外には、不穏が充満して見える。
原作を読んでみた。作者の佐藤泰志は90年に、41歳で自ら命を断っている。その原作では、禍々しいことが起こってしまう。やっぱりか。ではしかしその禍々しいことが、これから人を殺すような表情の理由なのかと言えば、それも違う。
表情があらわれたのは、彼らが佐知子を愛おしく感じた瞬間だ。それが同時に、これから人を殺してしまいそうにも見えた。狂気と説明しては陳腐だし、これまた的外れだと思う。
もうどうなってもいい。自分を手放してしまっていい。あれはそういう沸点をしめしていたのではないか。だとすればそれは、人を殺すことと愛することの、どちらでもあり得る。
相手を所有する。影響を与える。相手を変える。自分を変える。社会から一対として認知される。一般的には恋愛に付随しているそういうあれこれが、僕と静雄の愛にはくっついてこない。
2人の間でもそう。会話がなくても、心地いい。結果を受け入れるために、理由を聞く必要はない。
一方でこの社会は、恋愛はもちろん、働くこと、生きること、人間と人間の関係に、所有や影響や意味や理由や認知を必要として、なりたっている。そうでないものは、異物になってしまう。異物を排除して、整えられている。
試写室を出て、見慣れない、とてもきれいなものを見たと思った。