私たちが見るものは、見られたものではなく、私たち自身でできている。ポルトガルの詩人ペソアのこの卓見を言い換えれば、誰もが各自の脳みそ内世界に生きている。
『最初の悪い男』は、小説で映画でアートで、各自の脳みそ内vs現実のもみ合いに目をこらしてきたミランダ・ジュライによる、初の長編。主人公は、現実から脳みそ内の平穏を守る達人だ。
シェリル43歳未婚。65歳のフィリップに好意をもって6年、運命の恋人だから、待ってる。そして、9歳の時から「自分の子」と感じる存在がいる。最初の赤ちゃんにちなんで「クベルコ・ボンディ」と呼んでるその子は、いろんな赤ちゃんに姿を変えて繰り返しあらわれては、永遠に一緒にいたいと目で懇願して泣く。ああ運命の子!
というのが彼女の脳みそ内で、現実とはだいぶ違うはずだが、その相違を妄想で補う手だてを心得ている。何も起きなくても、勝手に意味を与えれば、運命のドラマは続く。自己完結が最良。フィリップもクベルコも宛先に過ぎない、投函で満たされる。夜ごとの欲望も、挿入のはじまりを何重にも妄想するだけでイケる。そうやって脳みそ内と自宅に死守してきた平穏を、突然の嵐が襲う。
上司の娘クリーが居候に。金髪で巨乳で足の臭い20歳、自分と相反する要素ばかりの生き物との共同生活で、動かさないようにしてきたシェリルの脳みそ内も快適な自宅もごちゃごちゃに。
混乱のうちに、役回りという手がかりを得る。誰もが各自の脳みそ内を生きてるのに社会が破綻しないのは、状況に応じた役回りが脳みそにインストールされてるから。芝居やゲームのように、場や関係にふさわしい役回りをなぞって行動すればいい。みんな、そうしてる。
恋愛においては、特に。「悪い男にほれちゃうの」と嘆く女はそういう役回りを毎度自分でなぞり、相手の男を悪い男に変えさえする。
混乱する脳みそ内を、シェリルは役回りを引き受けることで落ち着けようとする。でもその役回りはいちいち意外で、「えっそこいっちゃう?」の連発だ。そして、6年の凪いだ片思いは荒れ、運命の恋人も運命の子も荒波の間にあらわれ、疾風怒濤の愛の日々をおくることに。平穏からは遠のき、物語は一体どこへ?混乱を嫌うあまり、恋愛という災害の避け方も心得てしまった。勝手な意味付けで日々の無意味さに目をつむるのが、通常運転。なにかの役回りを引き受けてやり過ごしてるけれど、本来の自分はどこか別のところにいる気がする。この人はこういう人だと長年思い定めてきたけれど、その思いが相手を変えてしまったようでこわい。
読者も思いあたる悩ましさの向こうに、愛の日々に苦しんだシェリルがたどり着く。他人の脳みそ内は謎だし、時に脅威だが、幸せの可能性があるのはそこだ。そして自分は自分の脳みそ内しかわかり得ない。つまり、孤独。でもその、開かれた孤独には罰ではなく、祝福こそふさわしい。