クリステン・スチュワートがダイアナ元皇太子妃を演じ、アカデミー賞主演女優賞に初ノミネートされた映画『スペンサー ダイアナの決意』。クリステンを、追い詰められゆくプリンセスに変身させた立役者が、本作のヘアメイクデザイナーとして、同部門のトップを務めた吉原若菜さんです。時間との勝負な撮影現場で、いかにアイコニックなダイアナ妃の面影を生み出したのか。その繊細な作業について聞きました。
映画『スペンサー ダイアナの決意』ヘアメイク 吉原若菜にインタビュー。「気付かれないのが正解な仕事。そこに美を感じる」
──吉原さんはナオミ・ワッツ主演の『ダイアナ』(13)の現場にも入られていて、ダイアナ妃を題材にした映画のヘアメイクを担当されるのは、今回が2回目だそうですね。
ええ。『ダイアナ』にはキーヘアスタイリストとして参加しました。ただ、ダイアナ役のナオミのことは、渡辺典子さん(ヘアメイクアップアーティスト。代表作は、『パワー・オブ・ドッグ』(21)、『沈黙 -サイレンス-』(16)など)が担当していて。私はナオミ以外の役者のヘアを担当していたんですが、典子さんの仕事を見ていて、いろいろ勉強になったんです。だからこそ、今回のプロジェクトがすごく楽しみでした。
──以前のインタビューで、今回のゴールは「クリステン(・スチュワート)をダイアナそっくりにすることではなかった」と読みました。ではどこを狙っていらっしゃいましたか?
実在の人物が題材の作品ですと、最初に監督と話すのは、「どれくらい役者を本人に近付けるか?」ということ。パブロ(・ラライン監督)とも、面接の段階からその話をしました。クリステンは毎日、朝から晩まで出ずっぱりなので、朝のヘアメイクに時間がかかるとなると、彼女への負担が大きいし、撮影時間も短くなってしまう。それもあって、なるべく効率的なヘアメイクで、「クリステンをダイアナ妃にするのではなく、ダイアナ妃をクリステンに昇華させましょう」と。時間短縮を前提に、どれだけダイアナの雰囲気にしていけるかを重点に置くことにしました。
──効率化の施策の一つが、ウィッグだと思います。クリステンがあるインタビューで、「若菜のウィッグは技術がすごくて感動した」というふうに話していましたが、その秘訣は?
私、ウィッグって芸術だと思っていて。本物に見せるためには、まず髪の毛の色が重要です。ワントーンだとカツラに見えてしまうから、ローライトとハイライトを施すなど、できるだけいろいろな色を入れるようにしています。特に、ダイアナ妃のように金髪の方ですと、毛先は明るくて根元は暗いんです。あとは、ダイアナ妃の髪の生え方も研究して。信頼しているウィッグメイカーのサミュエル・ジェームスに、レースに髪の毛を一本一本結ぶ“ノッティング”という作業をしてもらうんですが、「生え際はこうで、つむじの周りはこうしてね」と細かくリクエストしました。
毎朝、クリステンがメイクルームにやってきては、自前の髪をタイトにして、ウィッグを被って。撮影に向かう姿は、まるで羽ばたいていく鳥のようでした。日々、クリステンを送り出すような気分を味わえたのも、楽しい思い出です。
──サミュエルとはいつも組まれているんですか? たとえば、今年アカデミー賞脚本賞を受賞した、ケネス・ブラナー監督の『ベルファスト』(21)でも、母親役のカトリーナ・バルフがウィッグを付けていたそうですが。
私が尊敬するウィッグメイカーには、サミュエルともう一人、ピーター・オーウェンという有名な方がいて、『ベルファスト』は彼にお願いしました。それまでもずっとピーターと仕事をしてきたんですが、今回はスケジュールが合わなくて。でも、サミュエルと組めてよかったです。それは、ディティールまでちゃんと“見える”方だったから。「こういうふうに直してほしい」というリクエストにすごく早く、すごく確実に応えてくれました。まだ若いですが才能があって、その後も継続して一緒に仕事をしています。
──今回の映画は衣装も素晴らしいです。実際のダイアナ妃が着ていた服を元に、2度のオスカー受賞歴のあるジャクリーン・デュランがデザインを手掛け、シャネルが制作しています。衣装がヘアメイクに影響した部分はありますか?
ありますね。制作当初、コロナ禍で国をまたいでの行き来がしづらかった中、クリステンが何かの用事でイギリスとフランスに来ることになり、そのとき最初のフィッティングを行いました。クリステン、ジャクリーン、パブロ、私と、シャネルの方たちもいらして。ひとまずウィッグを一つだけ持っていったんですが、ジャクリーンは、70%くらいまで完成した段階の衣装を、すでに10着くらい用意していました。
そこで、ジャクリーンが「これはブレックファストのシーンの衣装だよ」とか、いろいろ説明してくれた中に、ダイアナ妃が若い頃のルックからインスパイアされた衣装もあったんです。この映画自体は、1991年のクリスマスに30歳頃のダイアナ妃がサンドリンガム・ハウス(ダイアナ妃の故郷、サンドリンガムにあるエリザベス女王の私邸)を訪れたときのストーリーなんですが、ジャクリーンいわく、「ダイアナらしいアイコニックな衣装を採用しているから、必ずしも年代に忠実ではないよ」と。それが、大きなヒントになりました。でも一方で、ウエディングドレスのような歴史に残る衣装のシーンはなるべく似せたくて。ウエディング当時のダイアナ妃は髪が長めだったので、ウィッグもそうしました。衣装一つ一つに合わせて、ヘアメイクを微調整しています。
──ちなみに衣装の総数はどれくらいあったんでしょう?
たぶん50着くらいありましたね(笑)。というのもストーリーラインとは別に、かつての記憶が次々にフラッシュバックする一連のシーンがあったので。しかもそのシーンの撮影に関して、パブロはクリステンがいつ何を着るか、当日になるまで教えてくれないんです。撮影の合間にちょっと時間ができると、ふらっと私たちのところに来て、「クリステン、今日このドレス着てみない?」って(笑)。ジャクリーンは残念ながら住んでいる場所がロックダウン中で、(劇中でサンドリンガム・ハウスとして使用された二つの古城がある)ドイツでの撮影に来られなかったので、アシスタントの方がFaceTimeでジャクリーンにつないで、いつの時代の衣装かを聞いて。私も即、スマホで実際の写真を調べて、クリステンのメイク担当のステイシー(・パネピント)と方針を決めて、本番が始まる2分前にウィッグの形を微調整したりして……。時間との勝負でした。
──クリステンはどんな方ですか?
すごくかわいいのが、カメラが回るまでは、アクセントも身振りもクリステン本人なんです。ちょっとボーイッシュなところのある方なので、猫背気味だし、歩き方もヤンチャで。直前まで私たちとジョークを言って笑ってたのに、いざ「アクション」の声がかかると、一瞬でダイアナ妃に変わる姿が印象的で。YouTubeでダイアナ妃の動画を観て、姿勢、歩き方、首のかしげ方、手の振り方などを、徹底的に勉強したみたいです。
役者さんによっては、直近の撮影で必要なセリフを都度覚える方もいると思うんですが、クリステンは役作りをかなり前から始めた上で、撮影開始までにすべてのセリフを頭に入れてくるそうです。で、各シーンの撮影が終わるたびに、その分の台本のページを破っていくんです。撮影の終盤では「もうこれしかページ残ってないよー」なんて言って、嬉しそうでした(笑)。
──『ザ・マーベルズ(原題)』(2023年に米公開予定)も手掛けるなど、ますますのご活躍が期待される吉原さんですが、今後の夢はありますか?
よく聞かれるんですが……、今は“やりたい仕事”と“やれる仕事”が必ずしも一緒ではないんです。なぜかというと、小さい子どもがいますので。事務所に「この時期に仕事を入れたい」と伝えると、オファーが5つくらい来るんですが、映画って家族にアンフレンドリーな産業で、家族と一緒に生活しながら働くのに合わない仕事が多いんですよ。クリエイティブ面でやりたいことはたくさんありますが、選ぶ基準としてはどうしても条件面で“やれる仕事”を優先します。
じゃあクリエイティブ面でやりたいのは何かというと、まずファンタジー作品。あとは、英語で「Prosthetic makeup(補綴メイク)」と呼ばれるタイプの特殊メイク。たとえば、『エディット・ピアフ 〜愛の讃歌〜』(07)で、マリオン・コティヤールが特殊メイクによってピアフの晩年まで演じていましたが、そんなふうに人物像を作っていく仕事にとても興味があります。
──映画のヘアメイクは、ただクリエイティビティを発揮すればいいわけではなく、歴史の勉強や、役者の個性への理解が必要だったり、緻密さのいるお仕事だと思います。醍醐味を感じるのはどんな瞬間ですか?
どちらかというと、ないものを作り出す方が簡単なんです。クリステンのウィッグもそうですが、「かつてあったものを、ない状態から作り出す」のは、大きなチャレンジです。さらに、どれだけ自然にできるかも重要で。それこそ『ベルファスト』のヘアメイクもかなり凝っているんですけど、みんな気付いてくれない(笑)。でも、気付かれないのが正解だし、そこに美を感じるというか。役者さんに「すごいね、これ本物みたいだね!」って言われたら嬉しいし。この仕事が好きなので、毎日が楽しいです。
『スペンサー ダイアナの決意』
1991 年のクリスマス。ダイアナ妃とチャールズ皇太子の夫婦関係はもうすでに冷え切っていた。不倫や離婚の噂が飛び交う中、クリスマスを祝う王族が集まったエリザベス女王の私邸サンドリンガム・ハウス。ダイアナ以外の誰もが平穏を取り繕い、何事もなかったかのように過ごしている。息子たちとのひとときを除いて、ダイアナが自分らしくいられる時間はどこにもなかった。ディナーも、教会での礼拝も、常に誰かに見られている。彼女の精神はすでに限界に達していた。追い詰められたダイアナは、生まれ育った故郷サンドリンガムで、今後の人生を決める一大決心をする――。
監督: パブロ・ラライン(『ジャッキー ファーストレディ 最後の使命』)
出演: クリステン・スチュワート(『トワイライト』シリーズ、『チャーリーズ・エンジェル』)、ジャック・ファーシング(「風の勇士 ポルダーク」)、ティモシー・スポール(『英国王のスピーチ』)、サリー・ホーキンス(『シェイプ・オブ・ウォーター』)、ショーン・ハリス(『ミッション:インポッシブル/フォールアウト』)
配給: STAR CHANNEL MOVIES
10 月 14 日(金)、TOHO シネマズ 日比谷ほか全国ロードショー
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吉原若菜
1980年生まれ、東京都出身。15歳で美容学校に入学すると同時に美容師として働き始め、18歳で渡英。サロンに勤務しながら、知人のMV制作への参加をきっかけにメイクの勉強を始め、やがて映画のヘアメイクを担当するように。以降、24年以上、映画業界でヘアメイクデザイナーとして活躍中。芸術家としてのバックグラウンドもあり、クリエイティブかつ機能的な技術が高く評価されている。これまで特殊メイクからウィッグ、メイクアップやヘアメイクまで、メイクアップ部門におけるすべての技術を獲得し、マネージャーとして、デザイナーとして今や最も知識のある人物。代表作は、『ハイ・ライズ』(15)、『シンデレラ』(15)、『オリエント急行殺人事件』(17)、『ナイル殺人事件』(22)など。
Text&Edit: Milli Kawaguchi