恋愛には2種類あるのかもしれない。
この人とこの先あんなことやこんなことがしたいの愛と、ただ今この瞬間を一緒にいたいの愛。
玉の輿目当てとか安定狙いとか計算高いとか揶揄されるのは偽物の愛ではなく、前者の愛。不倫とか二股は裏切りだから偽物、なのではなく後者の愛。両方を満たせば、幸せな恋愛や結婚になるだけのこと。
そんなことを考えたのは『あなたはまだ帰ってこない』を見たから。映画監督でも脚本家でもあるマルグリット・デュラスが30年前に書いた原作のタイトルはあっけなく、『苦脳』。いい邦題だ。
『苦悩』は自伝的小説でありつつ、1945年当時の自身の日記=戦争ノートをいじらずにそのまま使っているとデュラスが言う一方、同タイトルの短編集に収められた他の小説が内容を補完する構造になっていて、フィクションと体験の境界はひどく曖昧に、複雑に仕組まれている。
しかし物語はシンプルだ。第2次大戦下のパリでレジスタンス運動の同志でもある夫ロベールが投獄され、その帰りを待つ。ひたすら待つ女の話。
待つマルグリットは、やはり同志でロベールの友人のディオニスと、恋愛関係にある。ロベールの消息探しを手伝うと近づいてきた、ナチスの秘密警察に内通する刑事ラビエの下心も拒絶はしない。だが、ロベールを思って気が狂わんばかりであることもまた、彼女にとっては無二の真実。
やがてパリが解放される。この時点ではナチスの非道はさほど暴かれておらず、ロベールが強制収容所で死の寸前にあることも、まだ。再会は叶うか。マルグリットはどんな選択をするのか。
と一応書いたが、デュラスのその後はすでに史実として明らか。この映画が描くのは、デュラス=マルグリットの心の動きだ。
帰りを待つことは、帰還という未来を望む愛。デュラスは、自身の愛をそう腑分けする。冒頭の分類で言えば、前者。帰還すれば、終わる。この腑分けを非情と見る人もいるだろう。でも私は、デュラスはバカがつくくらい真摯なのだと思う。多くの人のように、自身の愛の腑分けに気づきながら気づいてないふりが、できない。
愛の対象が人から国へと大きくなると、ごまかしはもっと容易になる。レジスタンスや解放は美化されがちだし、戦争が終わって占領下での自分らを被害者としてだけ語りがちだが、実際はどうだったか。
収容所からの帰還、という世界史の一端でもある物語。待ち続けた女、という古今東西で難なく共感も理解もされる物語。でも、人は日々を生き、人の心はその瞬間を感じているに過ぎず、物語の一部ではない。大きな物語の下にすべりこませた小さな嘘は、腐りだしていないだろうか。
愛に自分にバカ真摯が過ぎて、世間の大通りからはみ出してしまう。そのつまづきをまたひとつ確認したとして、本欄は終了です。お付き合いありがとうございました。