世界の映画史に名を残す名カメラマン宮川一夫は、俳優と話す時の監督の視線を観察して、どう撮りたいかを察していたと振り返る。「それがコンビというものですよ」
ことは、名人や天才の仕事場に限らない。男たちはこういう関係を結びがちだ。少なくとも、日本の男はそう。多くを語らず、察し合う。プライドを守り合う。「それ、本人に言えばいいじゃない」とアドバイスしてあげると、「女にはわからないよ」とドアを閉じる。「女はなんでも言葉で言えて、図太いからなあ」と喜ばれないお土産を付けたりもする。
じゃあ女の「察してほしい」にも双方向で対応するかといえば、「言ってくれなきゃわからない」と、察してもらう立場にでんとお座り。女の「察して」がわからなかった不手際を、自分が男であることの傍証と都合よく解釈、胸を張りさえして。結果、女は「♪私、あなたのママじゃ〜ない」と山口百恵の「ロックンロール・ウィドゥ」を歌い継ぐことになる。
だが、そういう男同士の察し合い、わかり合いの関係は、映画に似合う。映画の中では、もどかしさは輝くし、肝心なところに触らないようにし合った結果、間に合わない切なさも美しい。
『半世界』も、そんな映画だ。
稲垣吾郎、長谷川博己、渋川清彦。ある地方都市で中学高校を一緒に過ごした、40歳手前の3人。そのうちの長谷川が突然帰ってきて、お互いを察し合い、残りの人生について心を揺らす物語。いかにも不器用な、男たちがかわいらしい。
ひとりで炭焼き小屋を営み、黙々と作業する稲垣は、距離をとろうとする長谷川に、「甘えんじゃないよ」と繰り返す。甘えて欲しくて、そう言う。長谷川は元自衛官で、海外の任地から戻ってきた。なにか様子がおかしい。
法律が変わり、今後は戦地周辺を体験した人が増えることになった。そういう現実がある。ここはそんな体験をして戻ってきた人を受け入れられる社会だろうか、と考える必要が私たちにはある。
阪本順治監督による、オリジナル脚本。『半世界』は、日中戦争の従軍カメラマンだった小石清が任地の中国で人々の暮らしぶりを撮った、写真集のタイトルから引用したという。戦地とは別の、もう半分の世界。あたりまえの、日常の営み。
私は『半世界』は、男たちの世界のことでもあると思った。もう半分には女がいる。池脇千鶴演じる妻は、稲垣に、そして息子に、いろんなことを聞くのに、彼らは答えない。自分の思いの表し方がわからない。社会がそう育ててきたから。
映画の中のそんな男たちを、観客は愛おしく観る。それは、映画の外でその痛みや苦しみが顧みられないからでもあって。もう半分の世界の、言葉で言えるまともさを「図太さ」などと羨ましがってばかりいないで、いやそもそも半分ってのがおかしい、男も同じようにできるはずだよ、「甘えんじゃないよ」と思いました。