一度ちらりと見かけただけで
何十年も記憶に残り続ける女の正体
街で見かけた女性の素敵さに、衝撃を受けることが稀にある。数年に1回くらい、いやもっと少ないかもしれないほど稀にだが、それだけに強烈。その時の衝撃を、今もひとつひとつ覚えているほどなのだから。
それも何十年も前の学生時代に見かけた女性の姿を、今も鮮明に覚えていて、自分でもなんだか怖い。人並みの記憶力しかない自分が、ほんの数分、どこかの駅でそばに立っていただけの女性の姿をなぜ覚えているのか? でも”素敵”の印象は、時にそのくらい圧倒的なパワーを持って、人の記憶の中に刻みつけられるものなのだ。
“その人”は、オリーブ色のトレンチコートを着て、グレイのハイヒールを履いていた。首元に巻いたスカーフもグレイのジャガード。1番鮮明に覚えているのは、髪型で、マリリン・モンローを思わせるウエービーなボブ・スタイルだった。
いやこうして言葉で説明をしても、大きな特徴はない。もちろん美人だったし、プロポーションも抜群だった。ただこうやって書いてしまうと、そんな人はたくさんいる。それが何十年もしっかりと記憶の中で生き続けるのは、自分自身不思議でしかない。
一方10年ほど前、あるレストラン、近くのテーブルで食事をしている人に、目を奪われたこともあった。もちろんその人のことも極めてクリアな記憶として残っている。グリーンのニットに、パールネックレス、美しい外はねボブ……上半身しか見えなかったから、たったそれだけの記憶だが。
そして数年前、銀座の松屋で見かけた女性はファー付きのレザーのコートを着ていたが、なんといっても、見たこともないような微妙な髪色の髪をふんわりしたアップにまとめていたのが印象的。その日以来、あの髪色にしたいとずっと思っているほど。
ともかくそんなふうに、何年かに1度忘れられないほどの女性に出会う。でも何がそんなに記憶に絡みつくのか? 彼女たちに共通するものは、一体何なのかと考えた。
にわかには見つからなかったが、悩んだ末に行き着いたのは、彼女たちはまるで”60年代の女”のようだったことなのだ。美人でプロポーションが良いことは共通していたけれど、それだけではない、何と言うかみんなクラシカルな雰囲気を醸し出し、”誰とも違うコンサバ”な印象を放っていた。コンサバなのに、とても個性的だったのだ。その感じ、わかるだろうか?
そもそもコンサバとは”個性的”の対極にあるスタイルなわけで、皆同じ印象になりがちだけれど、その人たちは誰とも違う。それこそずっと忘れられない位の存在感を放っていたのだ。ここに共通していたのが、つまりは60年代からやってきた女性のように見えたこと。
最初の人は髪型に加えて、肌が真っ白で、赤い口紅がよく映えたせいもあってか、マリリン・モンローのように見えたし、ふたりめはクラシックなグリーンと真珠の組み合わせがグレースケリーを思わせる。3人めはシックなのにどこかコケティッシュな印象がブリジット・バルドー……。
以前から私は、こう主張してきた。歴史上、女が1番美しかったのは1960年代であると。先ほど挙げた女優たちが、ハリウッドにおいて最も活躍したのは60年代である。ここに、オードリー・ヘプバーンや、 エリザベス・テーラー、デビューしたてのカトリーヌ・ドヌーヴなども入ってくるが、みな今も名前が残っている女優ばかり。
この頃の女優たちの美しさや優雅さ、官能性には、正直誰も敵わない。ロックミュージックが70年代に完成を見てしまったように、女性美も一度60年代に完成を見ているのだろうか。この時代は男も最も男らしかったから、女も必然的に女っぽくなる。男にきちんと愛されることを望んだ時代の女たちだからなのだ。
その魅力、その美しさ、その佇まいをそっくり体現したような女性たちに出会ったからこそ、まるでタイムスリップで彼女たちがやってきたように思い、強い衝撃を受け、ずっと忘れずに憧れ続けるのだと思う。
もちろん、60年代の女に見えること自体とてつもなくオシャレ。それだけで特別なセンスを感じさせるが、加えて60年代風ファッションが女を本当に美しく見せるわけで、最強の素敵がそこに生まれるのだ。
女がこの上なく女だったあの時代を、私たち女は決して忘れてはいけないのである。