一体何者? 何をしている人なの?
そう思わせる女性に共通するルール
ふと気付いた。街で見かけてハッとさせられるのは、正反対の2つのタイプ。 限りなく上品な女性か、ギリギリまで派手な女性か、どちらかだったりすることを。
そういう意味で、どっちつかずの中途半端なファッションには、申し訳ないけれど目がいかない。単純に、人目を引くエネルギーがないからである。
そう、人目を引くエネルギーこそが、すなわちオシャレの正体であると言っていいはずだ。もちろん別に注目されなくたっていい、人に見つめられなくたっていい、そういう人もいるのだろう。
でも例えば、新しい服を買った時、1番気に入っている服を着て出かけた時、視線を感じたり、振り返られたりしたらやっぱり嬉しい。その瞬間、この服を着ていて良かったと思うに違いない。それこそがオシャレの快感というものなのではないだろうか。
そもそも人は、なぜオシャレをするのだろう。オシャレとは何のためのものなのだろう。
目的なんかない。単に自分が好きなものを着るだけ。自分がそれで心地よければいい、自分が幸せならばいい、そう主張する人もきっと少なくないはず。
それも確かにオシャレの理由。けれどもその結果として、人目を惹いたら、もっと心地がいいし、もっと幸せになれる。いや一度でもそういう思いをすると、女はその時の快感をずっと覚えていて、無意識のうちにそれを次のおしゃれのモチベーションとしているはずなのだ。
だからこの際、人目を引こう。必ず誰かが振り向くような、エネルギーを宿すオシャレをしよう。限りなく上品か、ギリギリまで派手か。結局のところ、人目を引かない装いは、センスも知性も、また人としての魅力も、何も伝えられないことになるわけだから。
例えば以前、街でこんな人を見かけた。スプリングコートとインナーとハイヒールが、微妙に異なる3種類のグレーのワントーン、バーキン型のバッグは絶妙なグレイッシュパープル、そして髪をくるりとゆるアップにしていた人を。
あまりの気品に息をのんだ。上品は上品であるほどに強烈なインパクトを放つものなのだ。そこにセンスも知性も人としての魅力も、全てを感じたからこそ、街で一瞬見かけただけなのに、それから何年も何年も忘れられないほど、その人は自分にとって重要な人になった。どこの誰だか、永遠に知りえない人なのに。
一方の派手さも、そこにちゃんとセンスを感じられれば、それ以上カッコいい表現法はないと思う。「ギリギリまで派手」のギリギリとは、それを超えると下品になり、ただうるさいだけになる、破綻するギリギリということ。
やはり以前見かけて忘れられなくなった派手は、目の醒めるような赤とショッキングピンクのツートンのミニワンピース。それをシルバーのベルトでぐるぐる巻いて、足元は赤いソックスをのぞかせてのグレーのショートブーツ。バックはレオパード柄のポシェット斜めがけ、大ぶりのサングラス。そうそうおまけにガラスっぽい大きなイヤリングをつけていた。もしどこか1つだけでも崩したら、たちまち全てが壊れて、くどいだけのダサい人になってしまうはずの、まさにギリギリの派手!
もちろんとてつもない目立ち方で目に飛び込んできたが、恐ろしくキュートでその人から目を離せなかった。一体何者? 何をしている人なの? その人自身に激しく興味を持った。限りなく上品な人にも、同じように関心を持たされてたのは言うまでもない。
そうやってファッションを超え、自分自身に関心を惹きつける、それがオシャレの醍醐味なのではないか。だったらやっぱり人目を引くべき。やってみたい。両極の強烈なオシャレを!
誰にも気づかれないオシャレは、やっぱり悲しい。
マリー・ローランサンが残した詩に、こんなに一節がある。
「死んだ女より もっと哀れなのは 忘れられた女です」