M 話は変わりますが、若松さんは、90年代に芸能事務所であるソニーミュージック・アーティスツの社長(のちに会長)としてPUFFYのプロジェクトに関わっていらっしゃいますよね。そのとき、PUFFYと奥田民生さんのコラボを最終的に決めたのは若松さんだと聞きました。
W 社長だから、あんまり現場に口を出しちゃいけないとソニーレコード本社からは言われていたけど、それは営業とか型がある程度決まっている仕事の話であって、音楽制作は無からの創造だからね。デビュー前の亜美ちゃん由美ちゃんプロジェクトは、毎日のように報告を聞いていて、でもなかなか方向性が定まらずに、自分も現場をやっていたので何が起きているか手にとるようにわかった。それで他の部署に所属していた民生くんに「二人のプロデュースをやってくれますか?」と私が言ったんです。
M 日本のストリートファッションの女の子たちがビートルズ・リスペクトなロックを歌う斬新さ。若松さんには見えていたんですか?
W いやいや。民生くんがいる部署が一番元気だったから、そこに預けるのがいいという、ただそれだけのこと(笑)。でもね、必ず面白いものができるという確信はあった。そこには原田公一という大変優秀なスタッフがいて、ずっと民生くんと一緒に仕事をしていたので。原田はもともと南佳孝さんのマネージャーをやってた人間で、昔からよく知っていたんです。
M じゃあ聖子さんのときからお仕事されていたんですね。
W そう。原田はセンスがあって音楽にも詳しく、メジャーな方向を向いたらものすごくいいものを作る。だから私も昔から意識的に彼を引き上げようとしていたんです(原田さんも後にソニーミュージック・アーティスツの社長そして会長に)。
M 若松さんの直感は人事面でも働いていたんですね。それがPUFFYにつながり、PUFFYはアメリカでアニメ番組やツアーも人気でした。
W モノづくりは、その中心にいる人が確信を持ってブレないことが大切だから。とにかく自信を持って突き進むことが大事。周りに何を言われても意見を変えたり引っ込めたりしないこと。
M そういう意味では『SOUND OF MY HEART』は、聖子さんが洋楽を自分のものにして歌うすごさを80年代中期に日本人全員が見て、日本のカルチャーが世界と対等に闘えるという勇気を与えたんじゃないでしょうか。クールジャパンとか流行るずっと前の話ですから。何よりどの曲もキャッチーで、例えば『TOUCH ME』はワールドカップバレーのテーマ曲として、試合と共によく覚えています。
W このアルバムは時間をかけて作ったので私も全曲大好きだし、皆さんの思い出の一部になっているなら大変光栄です。『CRAZY ME, CRAZY FOR YOU』や『TRY GETTIN’OVER YOU』もいいんだよね。
M 聖子さんがのびのびとバラードを歌っていて引き込まれます。自分はこれから80年代サウンドや動画の、世界的な松田聖子ブームが来る気がするんです。
W 配信やYouTubeの世界では既にそうなりつつあるよね。多くのクリエイターに関わっていただいた聖子の曲は普遍性がすごいから、私も新たな可能性を感じます。そうだ、もう一つ裏話があってね。フィル・ラモーンの奥さんは日系人だったんです。しかも本名が聖子と同じ蒲池姓。だからフィルは、余計にシンパシーを感じて熱心に取り組んでくれたのかもしれない。奥さんはこのときの縁で『ボーイの季節』の英語カバーを『Summer Love』というタイトルで日本発売してるんです。カレン・カモーンというステージネームでね。1982年に『フラッシュダンス』のサントラにも参加している方なのでぜひチェックを。
M 聖子さんは、いろんな形で世界と繋がっていたんですね!! 次回は休養から復帰後の3部作『Supreme』『Strawberry Time』『Citron』について。お楽しみに!!