11 Dec 2021
松田聖子の80年代伝説Vol.16 先行シングルが英国発売されたワールドワイドな12thアルバム『SOUND OF MY HEART』後編

昭和から令和へと変わってもトップアイドルとして輝き続ける松田聖子さん。カセットテープ1本から彼女を発見し育てた名プロデューサー・若松宗雄さんが、24曲連続チャート1位という輝かしい伝説を残した聖子さんのシングルと名作アルバムを語る連載。80年代カルチャーで育ったライター・水原空気がインタビューします。第16回目は全曲ニューヨークで録音し一大センセーションを巻き起こした1985年8月発売の『SOUND OF MY HEART』について。後編です。
前回の12thアルバム『SOUND OF MY HEART』前編も合わせてチェック。
1985年夏の話題をさらった全曲英語のアルバム!
ライター水原(以下M) 『SOUND OF MY HEART』は、ニューヨーク録音。ジャケットも特別感があって、かっこよかったです。
若松さん(以下W) ありがとうございます。このときはフォトグラファーが海外スタッフで、グラフィックも新鮮さを追求したくて、 CBS・ソニー社内のデザイナーによるコンペにしたんです。5人くらいだったかな。その結果、仁張君というスタッフの案が採用されて。彼は、私がキャンディーズを担当していたときに『春一番』のシングルをデザインしてくれた人でもあるんですよ。
M 『春一番』は大ヒット曲ですけど、ジャケットのcandiesという小文字の書体が、いま見ても実におしゃれですよね。『SOUND OF MY HEART』のSEIKOという文字もデジタル調で斬新でした。
W POPな新しいテイストのジャケットになりましたよね。
M 先行シングルの『DANCING SHOES』はなぜ12インチだったんですか?
W 当時海外で12インチシングルが人気で、クラブなんかでよくかけていたんです。英国と同時発売だったのでこの曲も自然とそうなって。私も新しいことが好きだから。
M 日本で発売した先駆けでもありました。ドーナツ盤の7インチシングルより録音できる面積が広いから音もいいですし、ジャケットサイズも大きい。聖子さんは1981年の『風立ちぬ』の時点で既にイギリスで評判になっていたのをよく覚えています。英国の音楽ジャーナリストに絶賛されているというレポートをFM雑誌か何かで読んで。
W そうだったんですね。大滝詠一さんの世界はイギリスの方に人気が出るのがよくわかります。ヨーロッパ的な深みやかげりもあるから。いまみたいに簡単に世界配信できる時代じゃなかったので、日本に来たときに気に入ってレコードを買ってくださったんでしょうね。
M 『SOUND OF MY HEART』を足がかりにして、その後、聖子さんは全米デビューし、ダンスチャートやジャズチャートで活躍していくわけですけど。
W ただ、このときはもう少し時間が必要で。聖子がいくら日本で人気といっても、アメリカではただの新人歌手ですから、プロモーションもしっかりできるタイミングが望ましかった。でも聖子は努力家なので、その後英会話をマスターして流暢に話せるようになり、いまも果敢に挑戦を続けていますよね。
M 本当にそうですね。ところで、これは私の希望も込めてなのですが、聖子さんが海外で活躍するなら、聖子ちゃんカットの「ザ・ジャパニーズ・アイドル松田聖子」として登場するのも面白いのでは、とときどき思うんです。いまのコンサートでやられてるようなフリフリのドレスで『風立ちぬ』を英語で歌うとか。
W よくわかります。アーティストは本来の持ち味が重要で、向こうのカルチャーに同化しすぎるのではなく、日本人としてのオリジナリティが大事ですから。
70年代から90年代へとJ-POP史を彩る足跡。
M 話は変わりますが、若松さんは、90年代に芸能事務所であるソニーミュージック・アーティスツの社長(のちに会長)としてPUFFYのプロジェクトに関わっていらっしゃいますよね。そのとき、PUFFYと奥田民生さんのコラボを最終的に決めたのは若松さんだと聞きました。
W 社長だから、あんまり現場に口を出しちゃいけないとソニーレコード本社からは言われていたけど、それは営業とか型がある程度決まっている仕事の話であって、音楽制作は無からの創造だからね。デビュー前の亜美ちゃん由美ちゃんプロジェクトは、毎日のように報告を聞いていて、でもなかなか方向性が定まらずに、自分も現場をやっていたので何が起きているか手にとるようにわかった。それで他の部署に所属していた民生くんに「二人のプロデュースをやってくれますか?」と私が言ったんです。
M 日本のストリートファッションの女の子たちがビートルズ・リスペクトなロックを歌う斬新さ。若松さんには見えていたんですか?
W いやいや。民生くんがいる部署が一番元気だったから、そこに預けるのがいいという、ただそれだけのこと(笑)。でもね、必ず面白いものができるという確信はあった。そこには原田公一という大変優秀なスタッフがいて、ずっと民生くんと一緒に仕事をしていたので。原田はもともと南佳孝さんのマネージャーをやってた人間で、昔からよく知っていたんです。
M じゃあ聖子さんのときからお仕事されていたんですね。
W そう。原田はセンスがあって音楽にも詳しく、メジャーな方向を向いたらものすごくいいものを作る。だから私も昔から意識的に彼を引き上げようとしていたんです(原田さんも後にソニーミュージック・アーティスツの社長そして会長に)。
M 若松さんの直感は人事面でも働いていたんですね。それがPUFFYにつながり、PUFFYはアメリカでアニメ番組やツアーも人気でした。
W モノづくりは、その中心にいる人が確信を持ってブレないことが大切だから。とにかく自信を持って突き進むことが大事。周りに何を言われても意見を変えたり引っ込めたりしないこと。
M そういう意味では『SOUND OF MY HEART』は、聖子さんが洋楽を自分のものにして歌うすごさを80年代中期に日本人全員が見て、日本のカルチャーが世界と対等に闘えるという勇気を与えたんじゃないでしょうか。クールジャパンとか流行るずっと前の話ですから。何よりどの曲もキャッチーで、例えば『TOUCH ME』はワールドカップバレーのテーマ曲として、試合と共によく覚えています。
W このアルバムは時間をかけて作ったので私も全曲大好きだし、皆さんの思い出の一部になっているなら大変光栄です。『CRAZY ME, CRAZY FOR YOU』や『TRY GETTIN’OVER YOU』もいいんだよね。
M 聖子さんがのびのびとバラードを歌っていて引き込まれます。自分はこれから80年代サウンドや動画の、世界的な松田聖子ブームが来る気がするんです。
W 配信やYouTubeの世界では既にそうなりつつあるよね。多くのクリエイターに関わっていただいた聖子の曲は普遍性がすごいから、私も新たな可能性を感じます。そうだ、もう一つ裏話があってね。フィル・ラモーンの奥さんは日系人だったんです。しかも本名が聖子と同じ蒲池姓。だからフィルは、余計にシンパシーを感じて熱心に取り組んでくれたのかもしれない。奥さんはこのときの縁で『ボーイの季節』の英語カバーを『Summer Love』というタイトルで日本発売してるんです。カレン・カモーンというステージネームでね。1982年に『フラッシュダンス』のサントラにも参加している方なのでぜひチェックを。
M 聖子さんは、いろんな形で世界と繋がっていたんですね!! 次回は休養から復帰後の3部作『Supreme』『Strawberry Time』『Citron』について。お楽しみに!!
Profile

若松宗雄/音楽プロデューサー わかまつ・むねお
一本のテープを頼りに松田聖子を発掘。芸能界デビューを頑なに反対する父親を約2年かけて説得。1980年4月1日に松田聖子をシングル『裸足の季節』でデビューさせ80年代の伝説的な活躍を支えた。レコード会社CBSソニーではキャンディーズ、松田聖子、PUFFY等を手がけ、その後ソニーミュージックアーティスツの社長、会長を経て、現在はエスプロレコーズの代表に。Twitter@waka_mune322、YouTube「若松宗雄チャンネル」も人気。
Text: Kuuki Mizuhara Photo: Miyu Yasuda