「映画みたいな」は恋愛の形容詞の定番だが、ここ10数年の映画を見渡すと、恋愛に不器用な主人公がめっきり増えた。監督になる前はモテなかったに違いない監督も、増えた。もはや「映画みたいな恋愛」は、モテない主人公によるぎこちないやりとりを指す、と言ってもいい。
しかしホン・サンス映画は、例外だ。モテる監督が描くモテる人の恋愛。けれどそれは、かつての「映画みたいな恋愛」のように、かっこよくはない。ドラマチックな展開、たいした物語もない。かといって、リアルかといえば、違う。登場人物はよくうたたねし、映画もよく夢に落ちる。幻想妄想との境界があいまいで、不格好な恋愛。
妻子あるホン監督は女優キム・ミニを『正しい日 間違えた日』の主演に迎えて出会い、交際が報道されるも映画をつくり続け、のちに交際を認め、『夜の浜辺でひとり』では、ベルリン国際映画祭主演女優賞を彼女にもたらした。なんと、監督との不倫が騒がれ外国に逃れた女優の話。映画の中で夢と現実の境界を揺らすように、映画と現実の境界も堂々と揺らしてしまうのだから、恐れ入る。
さらに面白いのは、彼の映画で彼女がいつも、モテる美人を演じること。不倫の恋人にそんな役をふるなんて、いったいどういうつもりだ。
4作めの共同作業『それから』は、脚本を当日書く即興演出、固定されたカメラ、できごとの反復と変奏、といつものホン・サンス映画でありつつ、小さな出版社社長の不倫騒動を描き、妻も愛人も泣いて暴れるこれまで以上に下世話な展開。
タイトルが示すように、夏目漱石の同名小説に不倫、復活愛、手紙の誤配などのヒントを得ている。その三角関係の外に、キム・ミニが絶妙に表現する「私がモテるの当たり前」な美人を配したのが、絶妙だ。妻や愛人よりも美人、な女が騒動に居合わせることで、状況が複雑になるし、漱石が書いた主人公は、生活にとらわれずにすむ元祖高等遊民だったが、この美人も理想を持ち続けられる立場であり、その呼応がさらなる深読みを誘う。
「生きる理由はなんですか」と社長に聞き、彼女が自分の考えを語る場面。私は信じる、私は主人公ではない、私は大丈夫、私は世界を信じる。
この「私」は、ホン監督自身だろうし、「主人公ではない」は、彼の映画を貫く考え方だ。つまり人生は物語ではない。起承転結にも収まらず、ただ「それから」が続く。すべては過程で、個々のできごとこそが大事、それはすこしの条件の違いでいくらでも変わり、揺れてしまうものだから。その「すこし」こそが、人生の妙味。漱石が「門外漢になると中味が分からなくなってもとにかく形式だけは知りたがる」という言葉で、複雑な内容を強引にまとめることの愚をついたのを、想起したくなる。
だからホン・サンス映画にはいつも、恋愛のはじまる気配が映っている。とらえがたいはずの気配を、見せてくれる。そして、モテるとか恋愛体質とかいうのは、その気配に気づく能力なのだとも教えてくれる。モテる男として。
『それから』
監督=ホン・サンス×女優=キム・ミニによる4作が一挙公開。『それから』公開中。7月末まで上映予定。6/16(土)〜『夜の浜辺でひとり』、6/30(土)〜『正しい日 間違えた日』、7/14(土)〜『クレアのカメラ』がヒューマントラストシネマ有楽町ほか、全国順次公開。