街で誰かに振り向かれる女。その引力の正体を考える。
「突然すみません。お写真を撮らせていただけますか?」
新人編集者の頃、女性誌の定番”街頭スナップ”というページを作るために、街行く女性にそうやって声をかけた経験がある。場所はもちろん銀座通り。今、シャネル・ビルがあるあたりが多かったと思う。
なぜ?と戸惑っている人には、「とても素敵な方だったので」という一言を添えていたが、今振り返ると、随分身の程知らずなことをやっていたものと恥ずかしくなる。社会に出たての全く未熟な編集者が”あなたは素敵だから、女性誌が紹介してあげます”的な傲慢な取材の仕方をするのである。ましてや、ファッション上級者を探すのに、こちらはファッションの勉強すらしていない素人。無知ゆえにやって退けたのだろうけれど、ただ不思議なもので、人選びに迷うことは、ただの1度もなかった。載せるべき人は、遠くからでも一目でわかったからである。
ともかく、初めて街頭に立った日から、その光は見えた。”素敵な人”が発する光である。それはいかなる人混みの中でも、「この人です!」と、光がその人を指差すように、紛れもないスポットライトが当たるからなのだ。
それはどこから来る光なのか、改めてその発露を考えた。もちろん、美しさそのものが持つ光でもあるのだろう。肌が発光する肌であったり、単純に顔立ちが端正だったり、髪がツヤツヤであったり。でも、遠目にもわかる全身を包む光は、それだけでは絶対説明がつかない。むしろそれが、文字通りの”目立つ”というパワーなのである。
ただ断っておくが、これは”派手”とは違う。どんなに派手な服を着ていても、遠目に目立ったりはしないのだ。それは、13センチのハイヒールを履いても、100万円のバッグを持っても同じこと。目立とうとしても目立てない……これはファッションの七不思議の1つなのである。
とは言え、目立たないって嬉しいだろうか? 誰の視線も浴びず、誰にも気がつかれないって嬉しいだろうか? オシャレな人がオシャレをするのは、突き詰めていけば、やっぱり人目を惹きたいからではないか? 街でオフィスでレストランで、ハッとされたいからなのではないか?そうでなければなぜオシャレをするの?もちろん、自分自身のため、自分がそれで幸せな気持ちになれればそれでいい……そんな言い方もあるけれど、でも自己満足に終わらず、誰かがそれを評価してくれるから幸せなのではないか? 視線を浴びることは、言わば無言の評価。やはり目立ってこそ、なのだ。つまり派手でないのに、目立つこと。目立たないようにしても目立つこと……じつは、それこそが”洗練”というものなのだ。
じゃあ”洗練”ってそもそも何? これが一番言葉にしにくいのだけれども、よく吟味され、磨き上げられた、優雅で高尚なもの。あるいは、嫌味がなく、あくどさがなく、野暮ったくない、都会的であか抜けたもの。センスの塊といってもいいし、ともかく素敵としか言えないもの。いや、言葉をどんなに尽くしても、それだけでは”洗練”を説明できない。それが、摩訶不思議な光の正体だからだ。そんな遠くからでも、どんな人混みでも、その人にだけ当たるスポットライト……それを作っていくのが、すなわちオシャレであり、本当の意味の自分磨きなのだと思う。
このコラムでは、その果てしない謎を少しでも解いていきたいと思う。
ちなみに街頭スナップで、声をかけた人の多くは、にこやかに穏やかに対応してくれて、取材はノーでも、感じは良かった。怒る人や無視する人はもちろん、怪訝な表情で逃げるように去っていく人は不思議にいなかった。そこまで含めて洗練だから。遠くから光っている人は、精神も人間性も洗練されているのだと、思い知ったものだった。
これも不思議なのだが、持ち物や服自体には、具体的な記憶がないのに、その人たちの印象と美しい表情はうんと記憶に残っている。とりわけ、遠くから光を纏って歩いてくる、その光景だけは妙に鮮明に覚えているのだ。
こう言った人がいる。「目を惹く素敵な女性ほど、すれ違った次の瞬間、彼女がどんな服を着ていたか、もう思い出せない」。結局、目立つのは服より何より、その人の存在感! でもだからって、何を着ていてもいいのではない。
視線を奪うエネルギーの正体は、やっぱり服が作る”洗練”なのだから。