映画の発見
ーー 諏訪監督は日本で『こども映画教室』というワークショップの講師をされてきて、その体験が本作のきっかけにもなったそうですね。
「ワークショップの鉄則として”大人は口出ししない”というのがありました。どうしても何か言いたくなるんですけど、黙って見ていると子どものなかにいろんなことが起きてきます。
子どもは自由で発想が豊かだといわれますけど、決してそうではないです。見てきた映画や好きな映画に規定されています。だけど子どもが大人と違うのは、ころっと変わることです。先入観をすぐに崩せるんですね。こっちのほうがおもしろいとか、こんなこともできるかもしれないとか、新しい気づきの瞬間がひじょうに多い。そういう瞬間は大人になるほど訪れにくいですよね。自由になるというのは長い時間がかかることですけど、子どもは変化が速いですから、大人ほど時間がかからないようです。
僕が講師をやるにあたって、決めたことが2つあります。
1つは、台本を書かないこと。話を用意してから撮影をするというプロセスをやめてもらいました。「お話を考えなさい」とやると、3日間しかないスケジュールのなかで、1日目も2日目も3日目もお話を考え続けてしまうんです。ここに映画の本質的な問題はないですよね。ですから、1日で撮影に入っちゃう。撮影も演技もすべて即興です。
2つめは、監督を決めないこと。一般的に映画教室では、監督が誰、カメラが誰、俳優が誰というように、まず役割分担から始まります。たしかに映画制作システムを教えるという意味では正しいやり方ですね。でも僕は絶対にそれをしたくありませんでした。大人がやっている真似事を子どもにやらせてもおもしろくないでしょう? 僕がやるのは映画のキャリア教育じゃなくて、人間教育として映画をもちいるということです。だから意思決定のシステムを取っ払いました。
『監督が決めます』ということができませんから、話し合いはぐちゃぐちゃになります。でも逆に言えば、主張の強い子もいれば、自分の意見を言えない子もいるということが、子どもたちの間で前提になるんです。それを自分たちで乗り越えていくんですね。『ほんとうは刑事がやりたかった』と泣いている子がいると、『じゃあ、刑事役をつくっちゃおうぜ』と柔軟に解決していく。おかげで映画には刑事が突然出てくることになるんですけど、そうやってなんとなく乗り越えていくんです。この『なんとなく』をマネジメントするのは大変ですけど、そこで子どもたちは人間的な関係をつくる経験をするんだと思います。
彼らがどういうふうに映画を発見していくのかがおもしろかったです。今の子は技術的に詳しくて、ファイナルカットを使って編集する子もいるくらいですからね。ワークショップでも、カット割りして撮った知識旺盛なグループと、手持ちカメラで勢いよく撮りっばなした初心者グループがありました。おたがいの映像を見たあと、カット割りした子たちが自分たちのやり方を変えたんです。『どうする? ここカット割る?』『だめだ。こいつの演技の白熱が途切れるから』なんて話し合ったりして。僕は見守っているだけなんですよ。そうやって子どもたちがみずから映画を発見していくんです」
従順なものが映らない映画
ーー社会/映画の両面で、民主性が模索されていたんですね。そのために即興という手法が有効だったのでしょうか。
「いま多くの映画が、プリプロダクションとプロダクションを分ける発想でつくられていますね。でも初期映画にそんなプロセスはなかったし、映画をつくるということの豊かなモメントは、みんなで一緒に体を動かして撮影することのなかにあると思うんです。お話を考えるのに会議室でみんなで悶々しているのは、ある意味でつらい時間ですよね。プリプロダクション/プロダクションの境をなくして、考えることと撮ることを一体化できるという直感が僕にはありました。その直感の背景には60年代の、フランスのヌーヴェルバーグや、アメリカのダイレクトシネマがあるでしょうね。16ミリカメラや同時録音技術のおかげで、機材とともに町に飛び出した時代の映画です。いろんな自由な映画の撮り方があるんですよね。
民主的な映画のつくりかたを模索しているというのはたしかにそうで、僕のなかにはそういう欲望があります。ただいまのところ、映画は、特に劇映画は、民主的な世界ではありません。監督が権力者として君臨するのがもっともスムーズなシステムだと信じ込まれています。巨大化した産業として映画を考えるなら、そういうシステムを必要とするのもわかります。日本映画の現場で助監督をやった経験からいっても、みんなで話し合うことはすごく嫌われますね。『話し合いなんて意味ないよ。“船頭多くして船山に登る”っていうんだよ』と、ベテランのスタッフが白い目で見ていたのを憶えています。
たとえば、僕は高校のときにロバート・アルトマンの『ナッシュビル』を観たんです。有名な人も無名な人も、出演者のギャラがみんな同じ額だとパンフレットに書いてあって、すばらしいなと思ったことがあります。民主的なものとして、こういうやり方だってあるかもしれませんよね。
『こども映画教室』と同じように、『ライオンは今夜死ぬ』はフランスの小学生たちと即興的につくった映画です。出演した子どもたちは自分で考えて演技をしています。お話づくりからみんなで参加しているので、話の内容も、自分の役柄も、自分がなにをやるべきかも、子どもたち自身が責任を持って演技したということです。ほとんどの映画は、監督に言われて”はい”と応じた、従順な人たちが映っているだけですよね。本作には、ただ言われたことを演っているような人が映っていないんです。完成作を見ながら、これは美しいことだと思いました」
ディズニーランドで「ここは千葉だよ」と滲ませる俳優
ーー諏訪監督のジャン=ピエール・レオー体験をおしえてください。
諏訪「レオーを最初に観たのは高校生のとき、『アメリカの夜』でしたけど、特にレオーを意識したわけではなかったんです。レオーを一躍有名にしたトリュフォーのドワネルものは、日本でちゃんと見れたのはぴあ主催の特集上映(「フランソワ・トリュフォー全集」’82、第5回ぴあフィルムフェスティバル)が初めてで、それまで『家庭』や『逃げ去る恋』などは見れませんでしたしね。レオーの印象を強く残したのは、『男性・女性』と『中国女』。破壊的になりつつあるゴダール作品のなかで、必死に演じているレオーですね。『気狂いゴダール—–ルポルタージュ:現場のゴダール』という、『男性・女性』の現場ルポをよく読んでいたんです。ルポとフィクションが半分ずつの本ですが、いまみたいにメイキングビデオが出回ることはないし、映画はDVDで何度も見れるというものではなかったですから、貴重だったんですよね。それを読むと、ムードの悪い現場なんですよ。ゴダールがずっとカリカリしていたり、ゴダールとカメラマンがギスギスしていたり、スタッフが手ひどく怒られたり、レオーが右往左往していたり。でもゴダールが朝まで地下鉄のホームで台詞を書いていたりして、映画ってこういうふうにつくるんだなって、そんな熱気とともにレオーの存在も記憶に残りました。ゴダールは厄介な人ですよね。レオーはいいですけど、ゴダールはあまり会いたくないですよね。
ふりかえると、僕のなかにはジャン=ピエール・レオー以前と以降があります。レオー以前、僕が高校生のときに見ていたのはアメリカンニューシネマで、『イージー・ライダー』から『タクシードライバー』くらいまでの10年間の映画です。そこにはダスティン・ホフマンやアル・パチーノが新しい俳優として出てきました。アクターズスタジオ系で、リアルな演技を追求した人たちですね。『タクシードライバー』のトラヴィスみたいに、ニューヨークに住んでいるタクシードライバーで民主党支持者で、”こんな人いるよな”って思えるリアルさをつくり出せる人たちです。
対して、レオーが演じる人は”こんな人いないでしょ”なんです。どこにもいません。それはフィクションだけど、フィクションで現実を再現しようとしていないし、人に現実と別のなにかを信じさせるフィクションでもないんです。やがてゴダールはより破壊的な方向へと、トリュフォーはロマネスクのほうに向かいましたが、めざしたものは同じです。それは映画を撮っているという現実を隠さないということ。『勝手にしやがれ』を最初に見て驚いたことですが、町中でカメラを振り返る通行人がよく映っています。自分たちは映画を撮っているのだということをさらけ出しています。アメリカ映画ではそんなことは起きませんね。通常、カメラの存在は隠すものですから。上映中、そこに映された世界が本当にあるかのように観客に信じさせる、それがフィクション映画の機能です。ディズニーランドみたいなもので、そこにいる間は千葉にいることを忘れさせるわけです。ところがゴダールの映画は「でも、ここは千葉だよ」と見せちゃうわけです。すると、この映画は僕たちの現実とつながっていると思えるんですよね。
レオーはそのつなぎ目にいる存在です。レオーはゴダールにああだこうだ言われながら、すごく緊張しながら演技をしている。それが明らかに映されている。そんなレオーに僕は映画のほうに引きずり込まれて、自分も映画制作に無関係ではないと思わされました。そんなことをまるで踊るようにできてしまう俳優はレオーだけです」
レオーを変えたもの
ーー子どもたちはレオーに対して、”老いぼれ””バカ””ジジイ”など言いたい放題です。両者は現場でどういった関係でしたか。
「子どもたちのワークショップは3回やって、最後の回に子どもたちに内緒でレオーに来てもらいました。みんなで『大人は判ってくれない』を見た後、レオーに登場してもらったんです。レオーは頑張ってパリから南仏に来てくれたんですけど、髪は梳かさずぼさぼさだし、ジャケットからお腹が出ているし、子どもたちは『どの役をやった人ですか』なんて訊いたりして、最初は『この人は何なんだ?』という様子でしたね。
劇中でレオーが歌い出す『ライオンは寝ている』(50年代アメリカで「Wimoweh」としてヒット、61年に『The Lion Sleeps Tonight』という題名で英語詞がつけられた。ちなみに筆者は幼少期にビジーフォーのモノマネで知りました)ですが、子どもたちが替え歌をつくって歌っていました。スタッフやキャストの大人たちを1人ずつおちょくる歌詞で、僕もやられているんですけど、レオーはいつもオナラをする変なおじさんとして歌われていましたね。
やっているときは意識しませんでしたけど、子どもたちがレオーを変えたところがあると思います。即興でやっているものだから、子どもがレオーにひどいことを言うんですよ。”ジジイ”と言われて”ジジイじゃない”とレオーは言い返していましたけど、あまりにひどい言葉は編集で外したくらいです。
驚いたのは、『何本の映画に出たの』と訊かれて、『それほど多くはないが、いい映画に出られて満足している』と返したところです。レオーは『ママと娼婦』のことを言ったんですが、その後のレオーの表情は優しさに満ちています。それから『結婚してるの』と訊かれたときは、急に笑いだします。その笑顔を見てフランスのスタッフが『こんなジャン=ピエールは見たことがない』とびっくりしていました。こういったレオーは、子どもとの関係で引き出されたものじゃないかと思いますね。
ただ、彼が子どもたちをどう思っていたかはわかりません。彼は共演者に興味がない人です。いつも自分に関心が深い人ですから」
死の演技
ーー本作は、死の演技に悩むレオーに始まり、死を演じるレオーに終わります。レオーは2016年に『ルイ14世の死』(アルベルト・セラ ’16)で死にゆく王を演じましたが、冒頭のシーンは『ルイ14世の死』をふまえているのでしょうか。
「あのシーンについてはそういうところもあります。僕たちの作品は5年前から始まっていて、途中からセラの撮影がレオーに入ってきました。レオーは僕に相談してきたんですよ。「死ぬ場面をどうやって演じたらいいと思う?」と訊いては、「こんなのはどう?」と演じて見せる。これまでレオーはシュザンヌ・シフマン(映画監督。トリュフォーの脚本や助監督としても活躍)にいろんな相談をしていたらしいですが、シュザンヌが亡くなって相談相手がいなくなったのかもしれません。
セラの現場を指して「しかもカメラが3台もあるんだ」とも話していたので、そこは本作の台詞として使いました。レオーはカメラが恋人なんです。常にカメラの位置を気にして、カメラに向かって演技をするタイプの俳優です。だから恋人がいっきに3人も現れて、パニックになっちゃったわけですね」
ーー最後のショットは、死の到来を目を見開いて迎えるような、レオーの表情が印象的です。
「想定されていたシナリオでは、レオーが死んでいるのか寝ているのかわからないというものでした。何度か撮影して、うまくいかなかったんです。そこでレオーに”好きにやってください”、”じゃあ、好きなようにやるよ”と交わして撮ったのが、あのショットです。
実はあの表情の後、レオーははっきりと死ぬ身ぶりをしたんですよ。それはものすごい勢いで、とてもじゃないけど死んだようには見えないんです。みんな唖然としました。でも”好きにやってください”と言ったんだから、やり直しとは言えません。ですからそこはカットしました。あの表情の強さを活かすという意味でも、あそこで映画を閉じるのがよかったですね。
近頃のレオーはお坊さんマニアで、アジアに来ると必ずお坊さんに会うんですよ。それに『ルイ14世の死』で死を演じることもあって、死ぬことについてよく話していたんです。雑談のなかで僕とレオーは、この映画のテーマは生きることはすばらしいということだと一致しました。それも暗い話にはしたくないと、特にレオーが思っているのもわかりました。レオーは精神的に暗いほうに引っ張られて落ちてしまう可能性がある人です。彼は病院に入っていたこともありますし、つらい時期が長くありました。だから、彼の望遠本能のようなものも働いていたとも思います。
レオーに限らず僕もそうですが、弱い状態や危機的な状況を通過した人は、暗くなりたくない、少しでも明るくいたいんです。僕の映画は明るい題材をあまり扱ってこなかったけど、いまの時代は世界的にも個人的にも厳しい状況がありますから。本作を明るいものにできたのは、レオーと一緒にやったことが大きいです。レオーの前で暗い話はできません」
映画はカーニヴァル
ーー子どもたちが撮ったホラー調の映画を”美しく単純だ”とレオーが評し、美しさと単純さが喜びとなるのだと語ります。諏訪監督にとって、映画はどうあるべきものですか。
諏訪「ドストエフスキーの小説はカーニヴァルだと、(ミハイル・)バフチンが言っています。カーニヴァルは演じる者と演じられる者の区別がなく、舞台と客席の境もなく、鑑賞されるものでなく生きられるものです。いつどこで始まるかわからないし、道端で誰かがなにかを始めたら、それを見ていた通行人がまたなにかを始めてもいい。それを統御する作家というものがいないわけです。カーニヴァルでは、僕らが日常でやってはいけないことをやってよくて、無作法や無礼が有効なことになります。つまりルールやヒエラルキーが破壊されるんですね。だから子どもたちがレオーをクソジジイと言ってもいいし、普段はそこにいてはいけないはずの幽霊やライオンが現れてもいいわけです。映画はそういうものであってほしいと思います。
劇中でレオーが言ったように、しかめ面で映画をつくる人たちもいるけれど、楽しみのためにつくる人たちもいる。編集でカットしましたけど、あの後レオーは、”『ハタリ』という映画があるんだけども”とハワード・ホークスについて延々と子どもたちに語っていました。そのとおりだと思いますね。
僕らはなんでも理解して納得して安心したがるけれど、カーニヴァルや子どもの遊びには目的も意味もありません。皆さんに本作でそういう時間を体験してほしいですね」
日仏の映画制作の違い
ーー日本とフランスを比較して、映画制作にはどのような違いがありますか。
「フランスのスタッフは余裕がありますね。フランスでは撮影時間は1日8時間、土日は休み、5日以上連続で撮影してはいけない、という規則があります。小さなことだけど、お昼休みは1時間休んで、みんなで一緒にご飯を食べます。日本だと必ず誰かが仕事をしていますよね。
児童保護もしっかりしていて、子どもは1日4時間(学校がある期間は3時間)しか拘束できません。規則破りが見つかると撮影中止です。子どものギャランティは本人の口座に振り込まれ、その口座は本人が18歳になるまで誰も触れない。現場的には困ることもあるけど、大事な規則ですね。
社会保障が人を守っていると感じます。映画・演劇に関わっている人間は、1年間に一定期間の仕事をすると、残りの期間の生活費が出ます。たとえば助監督が編集の仕事も学びたいと思ったら、申請して審査を通れば、勉強期間の生活費や学習費を得られます。だから彼らは1つの現場が終わるたび、休みをとったり勉強をしたりしていますよ。自分たちの生活を持続していくことが大事にされています。
日本だと生活を犠牲にしなくてはいけないですよね。フランスは恵まれ過ぎかもしれないけど、日本はあまりにひどいのではないでしょうか。それでもたくさん日本で映画がつくられ、若い人たちがおもしろい映画をつくっていて、日本映画はヨーロッパで尊敬されています。すごいことだと思うけれども、構造的には搾取ですよね。それを支えているのは情熱です。いつまでも情熱に甘えていていいのだろうかと思います」
ちなみに、本作の光の設計は、舞台となる古屋敷の壁が基調になったそうだ。諏訪監督はその壁を「ジャック・ドゥミ的」と言った。子どもと老人が異界のようにあらわす空間は、『ユキとニナ』にもあった。あの座敷を思い出しながら、大人になったユキが本作に登場していることを書いておかなければと気がついた。そして『ママと娼婦』で喋りっぱなしだったレオーと、寡黙なイザベル・ヴェンガルテンが再会することも。なによりレオーの口元に浮かんだ揺れ、本人も統御できない老いの振動にまで、彼があらわす映画の自由に見えたこと。こんな生前葬だったらいい。
映画『ライオンは今夜死ぬ』
南仏コート・ダジュール。死を演じられないと悩む、年老いた俳優ジャン、過去に囚われ、かつて愛した女性ジュリエットの住んでいた古い屋敷を訪ねると、幽霊の姿となってジュリエットが彼の前に現れる。そして、屋敷に忍び込んだ子供たちからの誘いによって、突然はじまった映画撮影、やがて撮り進めるうちに、ジャンは過去の記憶ともう一度向き合い、忘れかけていた感情を呼び起こしていく。そして残された時間、ジャンの心に生きる喜びの明かりが、ふたたび灯されていく。2018年1月20日、YEBISU GARDEN CINEMA 他、全国順次ロードショー。
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