『月曜日に乾杯!』で知られる世界的名匠オタール・イオセリアーニ監督。現在、82歳の彼が製作した最新作『皆さま、ごきげんよう』(12月17日(土)から岩波ホールほか全国公開)の舞台はパリ。個性あふれるパリの住人たちが織り成す人間模様を、反骨精神たっぷりのユーモアを散りばめながら軽やかに綴る、あったかい物語だ。最新作『皆さま、ごきげんよう』とともに来日した、オタール・イオセリアーニ監督に、文筆家・五所純子さんが話を聞いた。
『月曜日に乾杯!』で知られる世界的名匠オタール・イオセリアーニ監督。現在、82歳の彼が製作した最新作『皆さま、ごきげんよう』(12月17日(土)から岩波ホールほか全国公開)の舞台はパリ。個性あふれるパリの住人たちが織り成す人間模様を、反骨精神たっぷりのユーモアを散りばめながら軽やかに綴る、あったかい物語だ。最新作『皆さま、ごきげんよう』とともに来日した、オタール・イオセリアーニ監督に、文筆家・五所純子さんが話を聞いた。
オタール・イオセリアーニ監督と五所純子さん
映画『皆さま、ごきげんよう』12/17(土)より、岩波ホールほか全国順次ロードショー
2日前の記者会見で、イオセリアーニは東京に悪態をついた。20世紀の東京は無秩序で生き生きとしていたのに、せこい街になったものだ。灰皿をチェーンで囲い込み、落ちついて一服もできない。そんな主旨である。
『皆さま、ごきげんよう』では、パリの街を舞台に人物たちが行き交う。グーグルマップではつかめない人々の組成図があるみたいに、ローラーガールの窃盗団が駆け回り、ぺちゃんこになったホームレスを通行人が運び、警察署長は穴に落ち、赤い車は正面衝突、道路をまっすぐ横ぎっていく犬の行列。ダックスフンドはいつも遅れる。
パリは美しい街だ。建築もすばらしい。パリには7階より高い建物がない。すなわち7階より低い建物は、人間の次元に適っているということだ。パリでは隣人同士が知り合いだが、30階や40階に住んでいる人たちはお互いを知らない。もし私が高層ビルに住む人々を描くとしたら、本作の何もかもが変わるだろう。ただし、私はそんなことに興味がない。
人間的な街ではあるが、パリの過去は血なまぐさいものだ。フランス革命で厖大な犠牲者を出した。いま、人々はそれを忘れて暮らしている。しかし街には過去の影が重くのしかかっているんだ。
本作はフランス革命から幕を開ける。女たちは編み物をしながらギロチン見物。ごろりと落ちた首をエプロンに包んで走り出せば、次の舞台は戦場へ。迷彩服の軍人たちが、家々に押し入っては飯を食い、みすぼらしい家財道具を戦車に積む。そして現代のパリに舞台が移ると、あの女たちがまた毛糸を編んでいて、断頭台の男たちがひょっこり酒を酌み交わす。
過去から現在へ、同じ俳優が異なる配役で登場する。なぜ? わからない。でも浮かび上がってくるのは、時代を移しても、残酷で、滑稽で、人間はまったく性懲りがないこと。一人ひとりが必ず歴史的な末裔であることが、ひどく愛らしいさま。
フランス語ではparabole(寓話、比喩)だが、寓話でなく比喩だと思ってほしい。新約聖書が多用している伝統的な形式で、聖書では「たとえ話」と呼ばれる。paraboleは、ストーリーを語ったり人の運命を描いたりするのではない。つまり、人と人の間に起きることを語るのではなく、人生で起きている現象を全体的に見通すのがparaboleなんだ。
映画でいえば、ジャン・ヴィゴ、ルネ・クレール、オーソン・ウェルズだ。Paraboleは、見るたびに新しいことに気づかせてくれる。対極にあるのが、アガサ・クリスティだろう。アガサ原作の映画を、もう1度見返そうとは思わないだろう? もう結末がわかっているのだから。
重要なのは、“何を語っているか”でなく、“どのように語られているか”だ。偉大なるジャック・タチやチャールズ・チャップリンの映画には、paraboleの秘密が隠されているよ。日本映画なら、黒澤明の『羅生門』だな。
画面の構図やカット割りを考えるにあたり、イオセリアーニはストーリーボードを作成する。すべては綿密に計算されているが、クローズアップやカットバックなどの技法は使わず、広角レンズで長いワンシーン・ワンショットを撮るのが特徴的だ。
これはParaboleの規則でもあるが、私はある個性に特権をあたえることをしない。俳優の特徴を強調してはいけないんだ。たとえばクローズアップで目を見せてしまったり、顔の表情に寄ってしまうと、それがあまりにも具体的になって俳優自身の人間性が見えてしまう。俳優は登場人物の記号でなくてはならないんだ。カットバックは映画のもっとも恥ずべき事態だよ。映画館でカットバックを見てしまったら、すぐに席を立っていいと思うね。私は俳優にインプロビゼーションをさせることも一切ない。映画はインプロビゼーションに耐えられないからだ。
その意味で、私は独裁者だ。映画は純粋な独裁制なんだよ。監督という1人の人物が、すべての責任をもつのだから。映画や音楽は時間芸術だ、絵画と違ってね。観客がどれだけ登場人物の顔を眺めていたいと思っても、監督が定めた時間しか与えられていないんだ。観客がこの規則に従うということを前提に、映画がつくられている。
禁煙エリアと同じだよ。人々が言うことを聞くのを前提に、禁煙エリアはつくられる。それは日本やドイツでは守られるが、スペインやイタリアでは守られないね。
イオセリアーニは、「でも」と言わずに、「でも」の話題を連ねていく。
パリは美しい、でも、凄惨な過去の上に成り立っている。若い兵士が死体から指輪を盗んだ、でも、その指輪は愛の証として恋人の左手で輝きはじめた。人は永遠に戦争を続けるのかもしれない、でも……。
規則は自然ではないことを人々に受け入れさせる。
たとえば軍隊の行進だよ。日本でも、幼い子どもに列を組んで歩くことを教えるだろう? 行進することの危険性が忘れられているよ。ある隊列が橋を渡るとしよう。すると足音のリズムが波を誘発して、橋を崩落させてしまうかもしれない。
これは、全体主義体制が個人を圧し潰してしまう例のひとつだ。規則は、個人に対する暴力であり、人々を互いに似通った小さな単位にしてしまう。
また同時に、自由も危険だと言っておきたい。自由は手に負えない混沌をつくり出すからだ。
自由と規則は矛盾する。しかしそれは、矛盾を内に秘めて調和をつくり出している陰陽のようなものだ。
この陰陽こそが正しい単位なんだよ。陰陽の考え方は、自然の中にあるものだ。だから異議を申し立てることはできない。哲学的にいえば、矛盾の統一だ。
『皆さま、ごきげんよう』が世界のparaboleならば、このイオセリアーニの語りは『皆さま、ごきげんよう』のparaboleだろう。陰と陽を、悲劇と喜劇と読み解けば、自作解説のようである。
Paraboleの美しい例のひとつは、帝政ロシアの農奴制だ。
土地の所有者は、10人から1000人の奴隷を所有していた。主人は農奴を自由に売ることができた。農奴の夫・妻・子どもをばらばらに売り払う主人までいたんだ。
だからロシア人は今に至るまで、自分が誰かの奴隷であるという事態に耐えることができるんだ。そうしたわけで、社会を幸福にするという共産主義思想が、恐ろしい独裁制を生み出してしまったとも言える。ロシアの人々は何世紀にもわたって、このような人生の規則に従って生きてきたんだ。
独裁をキーワードにして、話題がしだいに移っていく。ファッションと女性史について、女性の政治参加について、そして故郷グルジアの女たちのこと。
ファッションにおける独裁は、いま避けて通れない。フランスでは、ブルキニについて多大な論争をしている。イスラム教徒の女性は海水浴をする際、頭から体全体を包むものを着なければならない。宗教上の理由からだ。もっとも馬鹿馬鹿しいと思うのは、フランス人が彼女たちに「服を脱げ」と言うことだ。フランス人は忘れている。19世紀には、フランス人の女性たちも、服を着たまま海水浴をしていたことを。
ベラスケスの「侍従たち」を見ると、女性のスカートが腰よりも大きく膨れ上がっているのがわかるだろう? 19世紀初頭は、歩道をこするほど長いスカートしか履いてはならなかった。さらに帽子をかぶり、鉄製のコルセットまで義務づけられていたんだ。女性がズボンを履くようになったのは、20世紀後半のことだ。
今だって、ティーンエイジャーはほとんど義務のように、膝の破けたジーンズを履いている。一体なぜだ。不思議に思わないか?
私が生まれ育ったグルジアには、そうしたファッションの独裁制は存在しなかった。ヨーロッパで女性に参政権が与えられたのは第二次世界大戦後だったが、グルジアでは1918年に制定された憲法で、男女の完全平等がうたわれている。それには歴史的ルーツがある。
グルジアの女たちは、子どもを生み育てながら、その子が若死にすることがわかっていた。なぜなら、子どもたちは戦争に行かなければならなかったからだ。女性は男性よりも尊敬された。女たちは、未亡人であるか、あるいは子どもを亡くした存在だったからだ。女性は戦争に行かなかったので、男性よりも寿命を伸ばし、そして実際上はほとんど女性が統治していた。こうしてグルジアでは、男性は国を統治する習慣をもたないため、馬鹿なことばかりやっている。
さて、言わずもがなだが、ドナルド・トランプは男性だ。ヒラリー・クリントンは女性だ。彼女は賢くない。すばらしい候補者とは言えない。しかし、トランプは危険だ。なぜなら馬鹿だからだ。
アメリカ大統領選の開票結果が出される日だった。話の終わりに、ウエストバージニア州でのトランプ勝利が知らされた。イオセリアーニは即座に「ノン」と言った。私は信じない、といった感じで。「悪い結果に終わりそうだ」と続け、特に言葉を継ぐことはなかった。
『皆さま、ごきげんよう』、原題は“冬の歌(CHANT D’HIVER)”。イオセリアーニの故郷グルジアの民謡だ。「冬がきた。空は曇り、花はしおれる。それでも歌をうたったっていいじゃないか」という詞だという。
映画『皆さま、ごきげんよう』
現代のパリ。アパートの管理人にして武器商人の男。骸骨集めが大好きな人類学者。ふたりは切っても切れない縁で結ばれた悪友同士。そんな彼らを取り巻くちょっとユニークな住人たち──。そんな中、大掛かりな取り締まりがはじまり、ホームレスたちが追いやられてしまうことに。街の住人たちは立ち上がるが…。カンヌ、ヴェネチア、ベルリンなどで数々の賞を受賞し、世界各国でゆるぎない評価を得ているオタール・イオセリアーニ監督が、82歳にして軽やかに謳いあげた夢が詰まった人間賛歌。12月17日(土)より、岩波ホールほか全国順次ロードショー。
http://www.bitters.co.jp/gokigenyou/
©Pastorale Productions- Studio 99
1934年、グルジアの首都トビリシに生まれる(グルジアは1991年に旧ソ連邦から独立。現ジョージア)。数本の短編を経て、62年に『四月』を製作するが、当局から上映を禁止される。79年パリへ移住。『落葉』(66)、『素敵な歌と舟はゆく』(99)、『月曜日に乾杯!』(02)、『汽車はふたたび故郷へ』(10)など、国際的な評価を得つづける巨匠である。
1979年生まれ。文筆家。著書に『スカトロジー・フルーツ』など。日めくり日記「ツンベルギアの揮発する夜」をboidマガジンにて連載中。