「Instagram全盛の今、写真家は何を撮るのか?」The Future of Photography vol.1 – 名越啓介、横田大輔、奥山由之の写真から

「Instagram全盛の今、写真家は何を撮るのか?」The Future of Photography vol.1 – 名越啓介、横田大輔、奥山由之の写真から

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ここ数年のうちに出版された写真集や展覧会または写真家を3つ取り上げて、写真の四方山話を繰り広げるこの連載企画。アート、ファッション、ドキュメンタリーなどその形式に関わらず、「今の写真」または「写真の未来」が感じられるものをピックアップして、2010年以降の「写真」について話を展開してみたい。

 

いまや「写真」といえば、Instagramに代表されるようにiPhoneやPCのモニター上で見ることが日常で、現実に似ている「画像」と呼んでもよいほどに加工されることが当たり前になっていて、僕らがそういった「写真」を目にすることは日々増え続けている。僕はこの状況に否定的ではないし悲観もしていない。実際Instagramにもその面白さが確実にあって、ことさらにフィルム写真やストレートフォトこそが「写真」であって、写真と画像は違う、と声を大にして言うつもりもない。逆に、この写真=画像の時代の中で、どんな写真に「リアリティ」があって、今後写真家はどういう写真を撮って(作って)いくのか、そのことに関心がある。ここでは、そんな来たるべき写真や新しい写真家像の兆しを感じるために、まったくタイプの違う現代の写真家3人の作品や写真集を概観することで、あらためて2010年以降の「写真」についての考えを巡らせてみたい。

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①ドキュメンタリー、ジャーナリズム編

名越啓介『Familia 保見団地』(世界文化社、2016年)

 

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この写真集は、愛知県豊田市にある「保見団地」という在日ブラジル人のコミュニティを、写真家の名越啓介さんが撮ったものだ。未だ人々が知らないような、マイノリティやコミュニティを撮影して、それをルポタージュとして伝えるということは、写真家の伝統的な仕事の一つだし、今もその有効性は失われていないと思う。

 

実際それらの写真は、名越さんがその団地に部屋を借りて住み込みで取材をし(3年間!)、コミュニティに受け入れられたからこそはじめて撮れたものだと思うし、同時に、名越さんの写真家としての冷静な視線が、写真集の中でない交ぜになっていて心をくすぐられる。またこの取材に同行していた藤野眞功さんによる巻末の文章も、被写体と名越さんに対する愛情と真摯さが感じられて、「日本にあるブラジル団地」という奇妙な現実のルポとして、読み進めるほどに引き込まれる。

 

 

同時に、写真集を見ながら、この保見団地に住むブラジル人の誰かのInstagram(たぶん実際だれかがやっていると思う)を見ることと、名越さんが撮ったこの写真集を見ることと、どちらが「保見団地」という現実のルポタージュとして面白いのかなとも考えたりもした。

 

『僕が見ていたのは「団地の彼ら」ではなく「団地の彼らと名越啓介」だった』

 

というのは、巻末の藤野さんの言葉だけど、確かに、この写真集は「保見団地」のルポタージュのように見えて、「保見団地」というブラジル人コミュニティと名越啓介という写真家がどのように向き合ったかというドキュメンタリー(記録)、と呼ぶほうがしっくりくる。総じて写真家と被写体との関係とはそういうものだし、写真家が撮った写真にはその微妙な違和感や距離感が写るから面白い。そんな違和感があって初めて人は「リアリティ」を感じるもので、保見団地のブラジル人のInstagramは当事者のものなのでそもそもその距離感を感じることはできないし、(加えてInstagramには違和感を排除するための機能がたくさんある!)、その世界と自分との間に微妙にこぼれ出る違和感や距離感の風景を写真におさめていくのも、2010年以降も引き続きドキュメンタリー写真家のなすべき仕事だと思う。

 

今は、Google MapやSNSがあって、写真家が撮るべき世界の僻地や辺境やマイノリティがどんどん減っていて、そのあからさまな対象を見つけることは昔より難しいかもしれない。だが、世界の辺境に行かずとも、東京から車で3時間半のところに「日本のブラジル団地」という写真家が撮るべき対象や違和感の風景があり、東京含め世界の都市や郊外の(文字通りの)「風景」が表面的に均一化しているからこそ、そのような「移住者」という他者との出会い(日本とブラジル、名越さんと保見団地、など複数の)が、2010年以降の世界にとって、より一層リアリティのある切実な「風景」になっていることも、名越さんの写真から感じることができる。

 

②アート編

横田大輔『MATTER / BURN OUT』(artbeat publishers 2016年)

 

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次は、アート写真の文脈の中で国際的に最も注目されている若手の日本人写真家の横田大輔さんの写真集『MATTER / BURN OUT』を取り上げてみたい。

横田さんの写真は一見すると、傷や埃の跡が入り混じる抽象的なイメージで、それが「写真」なのかどうかがわかりにくい。実際、撮影、データ、出力、複写、感光、現像などの工程を繰り返し作り上げられているので、通常の撮影行為のある二次元の「写真」とは異なり、イメージが重層的で、また物質性などを伴った作品になっている。

 

もともと「MATTER」という作品シリーズは、横田さんの普段の制作から漏れ出た通常なら「失敗」となる写真を、すべて作品として扱うために始められたプロジェクトで、この写真集は、2015年秋に中国・アモイの国際写真フェスティバルで展示した同シリーズを、展覧会終了後に空き地で再展示し、それを焼失(burn out)させるプロセスを4000カットにおよぶ写真に記録し、そのデータを再加工し制作されている(こう書いてもほとんど人は何がなんだかわからないと思うくらい、横田さんの写真作品の制作は複雑で重層的な工程を経ている)。

 

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Untitled 2016 デジタル・タイプCプリント ©Daisuke Yokota, Courtesy of G/P gallery

 

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Matter / Vomit 2016インクジェット・プリント、ワックス ©Daisuke Yokota, Courtesy of G/P gallery (あいちトリエンナーレ2016 展示風景)

 

「10年前に感じた見知らぬ土地の誰かが発信する情報へのトキメキは消えて、今では全てを聞き流すようにiPhoneの画面をスクロールする指が止まることはない。不感症で過食症な現在、何がうまいのかそしてまずいのかなんてもうどうでもいい。私の胃はもう限界まできているようだ。

消化不良のまま詰め込み続けた固形とも液体とも取れない異物が逆流する」

 

とは、この写真集に添えられている横田さん本人の言葉だが、これは明らかに、前述したiPhoneなどで日々大量に生産され消費されていく「写真」イメージのことをさしている。横田さんの作品を「写真」と呼ぶことに、少なからず違和感を覚える人もいるけど、実際これらの作品は、現代の写真を取り巻く状況や、「写真」というメディアへのクリティカルな問いから生まれていて、その事実を無視することはできない。

 

横田さんのように、写真に物質性を付与すること、または抽象性を帯びた写真や立体表現としての写真などは、2010年以降の国際的な写真表現の重要な潮流で、横田さんの作品もその文脈の中で評価されている(それだけではなく「プロヴォーク」からの流れの日本写真文脈もあるが)。一見すると横田さんの作品は「写真」に見えないので、その評価の基準がわからない人も多いかもしれないが、写真=画像となった時代において、その写真というメディアに「物質性」という肉体を与えることは、写真家としての純粋な欲望であるようにも思えるし、現代においてその傾向は世界各地の写真表現の中に見ることができる。この辺りは話を展開すると長くなるので、僕が編集を担当した美術手帖2016年9月号特集「#photograph」号が詳しいので、興味を持った人は読んでもらえると嬉しい。

 

③ファッション、日常編

奥山由之「BACON ICE CREAM」(Parco出版、2015年)

 

さて、最後は奥山由之さんの写真について簡単に触れてみたい。おそらくGINZAの読者にとっては最も身近な写真家で、今回の3人の中で最も若く、日本での知名度も高いと思う。彼ぐらい、今の時代の空気感を体現している写真家というのも興味深く、今のところは、アート文脈では取り上げにくいとは思うけど、陰ながら今後どんな作品を撮っていくのか注目している。

 

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写真というのは、基本的にビジュアル表現なので、最後のところアウトプットのかっこよさを問われやすい。そのビジュアルの表層性(つまりはかっこよさは)は、ドキュメンタリーであれアートであれ、写真には必要不可欠な要素だと思う。こういうことを書くと結構アホっぽいけど、実は意外に重要なことで、ファッションや広告の分野において、「写真」は時代を映す鏡のように機能することが多々あって、そこでムーブメントとなるビジュアルの表層性が(つまりは「かっこよさ」が)、その時代の(ファッションや広告のみならず)アート作品の表層性の流行に影響を及ぼすことも少なくないと思う。奥山さんの写真が、そのような影響力を持つものになるかは今後への期待だが、今の時代のように「写真」が飽和状態になったあとに、前述のような写真の「かっこよさ」のムーブメントを定義づけできる可能性がある写真家というのは実は数が少なくて、その意味において奥山さんの写真は「時代の最大公約数的イメージ(つまりは、皆が欲望する「かっこいい写真」)」になれる可能性を持っていると思う。

また、奥山さんの作品を語るに(本人は嫌がるかもしれないが)「インスタ的」という言葉を使っている人を見かけるが、この言葉に含まれるネガティブな感じは、僕は実はあまり否定的にとらえていない。Instagramは、確かに手軽に、写真と言葉を多くの人に伝えることができるツールだし、かっこ悪いことよりかっこいいこと、残酷なことより綺麗なこと、悲しいことより嬉しいこと、事件より「日常」を伝えることに優れたツールである。その点、奥山さんの写真は、それが日々の雲を撮っていても、大きな広告のキャンペーンであっても、ファッション写真であっても、目の前にある対象がすべて「等価」に撮影され、彼の「日常」の中に昇華されていて、インスタを見ているような気分になることがある。ただ、この「等価」という概念は面白く、言い換えれば、中心がなく、すべてに優劣がなく、日々は羅列であるということで、これは今の時代感覚の一端を如実に示していると思うし、そういう意味でも奥山さんの写真は2010年以降にしか生まれなかった写真だと思う(「等価(性)」という言葉は、10年前に清水穰さんがウォルフガング・ティルマンスの写真を評するに使用した言葉で、より複雑な概念なので、興味のある方は『写真と日々』(現代思潮新社、2006年)を読んでみてほしい)。

 

そういう意味で、過去において写真家が「写真」に求め続けていた意味での、写真の「リアリティ」を、奥山さんはそもそも求めていない気がする。総じていうと、今の世の中は、写真に「リアリティ」など求めていないし(リアリティという意味では震災時のyoutubeの映像には勝てない)、今の「写真」は、Instagramがそうであるように「現実に似たかっこいいフィクション」という役割でもよく、奥山さんにはこのまま走り続けて、時代を代表するかっこいいフィクションを撮って欲しいと個人的には思う。しつこいようだが、この役目を果たせる写真家は意外と少なく、かつ写真の未来を占う重要な役割なのだと思っている。

 

さて、まとめることもなく、三人の全く違うタイプの写真家を見てきたが、ここでなにか結論めいたものを言うつもりはない。かつてないほどの速度で生成と消費が繰り返される写真=画像の時代について、なにか悲観的な議論を展開することも可能だが、実のところ、そのような状況だからこそ写真家や写真を扱うアーティストは、それぞれの方法でより注意深く「写真」という存在に向き合っているし、またその役割も様々な方面へと拡張してきていると思う。そんな時代の「写真」や「写真家」の未来について、ああでもないこうでもないと考えるのが楽しい。次回のことは何も決めていいないが、同じように、今のこの時代に見ておくことが重要な写真集や写真家を取り上げられればと思う。

 

 

牧信太郎

編集者。1978年京都市生まれ。横浜国立大学卒業。主にアートや現代写真の分野の仕事。『美術手帖』コントリビュー ティング・エディター。過去には、写真雑誌『IMA』の編集やオペラシティアートギャラリーでのRyan Mcginley「Body Loud」展のカタログなどの編集協力など。

Twitter: @shintaromakiinstagram: @shintaromaki

 

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