夏の夕暮れは、他のどの季節よりも切ない顔をしている。日本的なマインドについて文化史とともに考察してきた文化人類学者の船曳建夫先生のお話とともに〝切なさ〟という感性をGINZAが探求。
GINZAが探究した! 4.〝切なさ〟という日本的感性
「カナカナカナ」というひぐらしの鳴き声を聞くと、少し寂しい気持ちになる。散りゆく桜や、線香花火もしかり。「目にした景色や、聞こえてくる音、懐かしい匂いに、頭の中でもう一層、恋の終わりや、自分の終わりを重ねて“切なさ”を感じてしまう。実はこれ、日本人だけが持つ感性なんです」と話してくれたのは、『「日本人論」再考』(講談社学術文庫)の著者であり、日本的なマインドについて文化史とともに考察してきた文化人類学者の船曳建夫先生。
「世界人口のおよそ半分を占めるキリスト教やイスラム教には、絶対的な神が存在します。しかし日本人には、絶対とか、不変とか、何かの最後を保証してくれる神がいないので、この世の終わりではなく、“自分の中の小さな終わり”を常に繰り返しながら生きているんです。クリスチャンやムスリムにとっては、そもそも“消滅”という概念がありません。何かが消えて無くなっていく。そう思っているのは日本人だけで、世界の多くの人は思っていないんですよ。四季を感じること自体、日本人独特の時間感覚です。カレンダーをめくったら夏が終わる、というような物理的な終わりではなく、そこに“切なさ”を重ねる。それは日本人が持つ素晴らしい快感であり、ある意味傲慢でもありますね」
文化の中でも常に表現されてきた感覚
では日本人は、一体いつの時代からこんなに“切ない”好きになっていたのでしょう。
「平安時代に作られた古今和歌集に『ひさかたの ひかりのどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ』という、紀友則(*1)の唄がありますね。『のどかな春の日に、落ち着いた心もなく、どうして桜は慌ただしく散ってしまうのだろう』といったような意味です。桜の儚さを詠った、“切なさ”に通じる表現だと言えましょう。“もののあはれ”という概念が生まれたのも平安時代で、この頃から、日本人は月や花にしみじみと心象風景を重ねてきました。
歌舞伎にも、“切なさ”を感じる演目はいくつかあります。たとえば、女形として有名な坂東玉三郎が繰り返し演じてきた『藤娘』(*2)は、紫の藤の花と着物をまとった娘が華やかに登場し、意中の男性の移ろいやすい心を嘆きながらも、ほろ酔いになりながら美しく舞うお話です。やがて夕陽とともに娘が去っていくラストシーンで“切なさ”がこみ上げてきます」
時代を問わず、夕暮れの時間はやっぱり切ない。
*1
紀 友則
平安時代を代表する歌人。従兄弟は紀貫之。 「ひさかたの〜」は百人一首にも収録された代表歌。
*2
藤娘
藤の花枝を持った娘を描いた大津絵を題材にした、 長唄による歌舞伎舞踊の人気演目。
失恋も寿命も美しく捉える
時間の流れに逆らうことのできない“老い”もまた、“切なさ”と切り離せないトピックである。
「作家の宇野千代が80歳を過ぎてからしばしば口にしていたという『私、何だか死なないような気がするんですよ』(*3)との言葉があります。生涯多くの恋愛や結婚を繰り返した、才色兼備で破天荒な人生を生きた彼女が、死期を感じながらも発した晩年の一言に、思わず“切なさ”を感じてしまいます。本来、悲劇やトラブルの渦中にいる人は、感傷に浸っている場合ではないはずですよね。日本人は、失恋や叶わない恋、死期などある種のマイナス感情を、歌や詞に乗せることで、美しいものとしてマネジメントできる感覚に長けているんだと思います」
*3
『私 何だか死なないような気がするんですよ』
宇野千代(1999/集英社文庫)
波乱万丈に生きた宇野千代の遺作。 老いてなお人生を楽しむ282の知恵を綴ったエッセイ集。
暗さの上にある明るさ、はたまた、明るさの裏に見え隠れする暗さ。その明暗があるものに心惹かれてしまうのかもしれない。順風満帆な幸せ物語でなく、救いようのない悲劇でもない、私たちは胸をぎゅっと締めつける“切ない”物語が大好きなのだ。
さて、今日も蒸し暑かった1日の終わりが近づいてきた。夕暮れ時になったら窓を開けて、耳を澄ましてみよう。オレンジがかっていく空の色や、どこかから聞こえる水の音が、あなたに“切なさ”を運んでくるだろう。