緻密に描き込まれたありとあらゆるモチーフと、それを彩る鮮やかな色の数々。アーティスト・田名網敬一さんは、1960年代から、圧倒的なエネルギーを放つ作品を創作し続けてきた。多彩なメディアで作品を展開するだけでなく、ファッションブランドや若いアーティストとのコラボレーションも積極的に行っており、幅広い世代から支持を得ている。
田名網さんは、幼い頃の鮮烈な記憶──日本橋の服地問屋で体験した色の布地にまみれて遊んだこと、東京空襲に遭った時の街の風景──を作品に取り込んできた。その生活が、コロナ禍に見舞われた世界の中で一変してしまう。展覧会や大学の講義、プロジェクトなどが止まり、締切に追われるルーティンから意図せず解放されることになったのだ。そこで、新たに取り組み始めたのが、ピカソの模写だった。3年近くになるコロナ禍ではじめた模写はすでに400点を超え、今も日々描き続けているという。 現在、NANZUKA UNDERGROUND、及び3110NZ by LDH kitchenの2会場で、この作品を中心とした展覧会「世界を映す鏡」が開催されている。展覧会を迎えたご本人にインタビューを行った。
キャリア60年を超える芸術家が、コロナ禍に「ピカソの模写」で見つけた癒しと挑戦 田名網敬一インタビュー
──今回の展覧会のタイトルを「世界を映す鏡」とされた理由は?
人間は、そもそも己の姿を直に見ることはできませんよね。鏡や写真とか映像に映った姿を見ているけれど、その像が本当の自分かどうかは、誰にもわかりません。例えば、自分の声を録音すると、聞こえている声と全然違うじゃないですか。それと同じで、僕は、この鏡に映った像は、本物とは相当違っているはずだと思っているのです。
つまり鏡というのは、虚構の世界を映すものなんです。鏡を通して自分自身を見る時、それが本当の像でなかったとしても、何かしらの虚像は出現している。真実というのは絶対に見られない、見えているものは虚像なんだという意味を込めて、このタイトルにしました。
展示風景(NANZUKA UNDERGROUND)。田名網さんは、ピカソによる絵を、自身のアレンジを加えながらくり返し描いているという。
──コロナ禍の日々は、ピカソの絵を日課のように模写して過ごされたそうですね。
私は基本的に、毎日同じ規則の中で過ごすことが好きなんです。それが、コロナ禍で様々な展覧会や仕事の予定が延期になって、生活リズムが根底から崩れてしまった。僕は生活の中でルーティンが守られていることが重要なので、かなり大きな変化でしたし、一時期は絵も描けなくなったくらいでした。それで、どうしようかなと考えていた時に、たまたまピカソの好きな絵(《母子像》)があって、それを模写しようと思ったのです。それで、この絵をヒントに、新しい《母子像》を描きました。当初は10枚くらいでいいかなと思っていたのだけど、なかなか飽きないし、続けていたら400枚くらいになりました。今回の展覧会では、そのうち300枚程を展示します。
展示風景(NANZUKA UNDERGROUND)。模写が壁一面を埋め尽くす、圧倒的なボリューム。
──毎日描き続けるモチベーションはなんだったんでしょう?
ある種の癒しなのだと思います。メンタルもすごく落ち着いてきましたし。僕は昔、写経をやっていたのだけれど、それに近い。というのも、普段僕がやっている表現の場合は、事前に色々考えないといけないわけですよ。テーマ、描くものは何にするか、テクニックとか、様々なことを考えて判断していくので、工程が複雑です。ただ、模写は写すべき絵がそこにある。その間に脳内で思考することがあまりないのです。だからこそ、癒しになったのかもしれないね。
──毎日模写をし続けて飽きないのはすごいですよね。
ピカソの好きな絵だからです。もしゴッホを描くとしたら、僕はすぐやめてしまうと思う。彼の絵は点描なので、風景でも人物でも作業としては似ているから、飽きてしまう気がする。ピカソは描き方から色の塗り方、構図、形態、全てが違うから、向いていると思います。ピカソの模写は本当に面白い。
──最近は、仕事ももとのペースに戻りつつあると思います。模写が創作へ与えた影響はありましたか?
もちろんありますよ。これまでも、ファッションブランドとのコラボレーションとか映像とか、違うメディアの仕事をやってから平面の絵の制作に戻ると、必ず直前の影響が出ます。メディアやジャンルが違うものであるほど、そこで得たノウハウがペインティングに役立つ。だから、僕にとってはコラボレーションも依頼される仕事でもすべてが学びです。
──様々な領域を横断する活動が、次のエネルギーにつながるんですね。
僕は他力本願な一面があるから、自主的にこれがやりたいというよりは、頼まれた仕事の意外性によって自分自身の創作が発展していくことに期待しています。偶然の出会いにかかっているところはあるけれど。ただ、新しいものを探し出すよりも、相手が与えてくれるきっかけによって、自分がさらに面白くなっていく方が好きです。
この間は、アメリカのサーフボードのメーカーから依頼されてデザインしたのだけど、形や素材が普段のペインティングとはまったく違うわけですよ。その条件があって初めて、ここに何を描こうかと考えるわけです。そこで自分の潜在能力が発揮される感じがします。一方、毎日キャンバスに描いている絵は、そういう制約はありません。大きさも自分で決めるし、形はたいてい四角だし。
サーフボードに田名網さんの絵を施した作品 田名網敬一 x Parley / Keiichi《空想にふける》2022 ©Keiichi Tanaami Courtesy of the artist and Nanzuka
──創作のアイデアは、自然と湧き上がってくるんですか? それともあれこれ考えて絞り込んでいくのでしょうか?
試行錯誤とか葛藤とかはあまりないかな。というのも、日頃から四六時中考えているので、いざひとつのテーマに落とし込む時は、一瞬にして浮かんできます。例えば、仕事を頼まれると、企画の説明を聞いている時に、すでにアイデアはできている。その後もあれこれ考えたりはしますが、話を聞いた時に浮かんだものがやっぱり一番良くなります。
──今後も、コラボレーションなど色々な機会によって、発展し続ける田名網さんの作品世界が見られることを楽しみにしています。
展示風景(NANZUKA UNDERGROUND)。左の絵には、最近コラボレーションをしたという、赤塚不二夫のマンガのキャラクターたちが描き込まれている。
実際、絵だけ描いていてもつまらないんだよね(笑)。表現は自由だし、その良さはもちろんあるんだけど、何をしてもいいとなってしまうと、むしろ何もできなくなってしまうと言うか。アーティストは、純粋に自分の中から湧き出てくるものを表現する人たちだと思われがちだけど、僕は他者との交流や、与えられる制約がある方が、まだ世の中にない新しさを生み出したり、人の才能を発揮させたりすることにつながる。それが人間の能力の面白いところ。僕も、普段の創作と依頼される仕事の往復を続けていきたいですね。
展示会情報
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田名網敬一
1936年東京都生まれ。美術大学を卒業後、雑誌のエディトリアルデザインなどで活躍する一方、実験的な作品を発表。以来、絵画や彫刻、アニメーションなど、領域を横断する創作活動を国内外で展開する。世界の主要美術館に収蔵される他、若手作家やファッションブランドとのコラボレーションも多数。
Photo: Tomoko Yonetamari Text: Satoko Shibahara