とにかく途方もない描き込みの作品がこれでもかというほど出てくる。東京ステーションギャラリーで開催中の「吉村芳生―超絶技巧を超えて」展は、観ているとその圧倒的な熱量にやられてしまう。
超絶技巧というと、その技術そのものに感動する作品を想像する。もちろん、吉村の作品もこんなの絶対マネできない、という技術が駆使されている。けれど、描かれているモチーフは、いたって普通。自画像を初め、友人たちのポートレート、なんでもない河原の風景、道行く人と車。写真に撮るにしたって、なんでこんなのをわざわざ?という対象を、執拗に描き込んでいる。
《ドローイング 金網》(部分)1977年、個人蔵
圧巻は、17mもある金網の絵。巻物上になった横に長い紙に鉛筆で延々と金網が描かれている。それだけ。とくにどこかに異変やドラマがあるわけでもないのだけれど、ここまで精緻に描かれていると、ついついじっくり観察してしまう。こんなふうにねじれているんだとか、普通なら絶対見過ごすどうでもいいことにふむふむと納得してしまう。
代表シリーズでもある新聞紙の忠実な再現もすごい。新聞の文字一つひとつが描き込まれていて、頭がくらくらする。自画像や織目まで見えるジーンズも、まるで写真のように見える。そう、彼が熱心に描き込んでいるものは、印刷や写真といった機械を通して写し取られたものばかり。単純な精度という意味では、機械にはかなわないものを、あえて手で写し描いているのだ。
《ジーンズ》1983年、個人蔵
その試みは、あえてピクセル化したかのようなシリーズにもよく表れている。写真を細かいマス目に分割し、そのマス目を一定のルールに則って埋めていく方法で描かれた絵は、たしかにピクセル的な粒がよく見える一方で、手描きゆえのそれぞれの細かな違いが揺らぎとなって、妙にざわつく。
《SCENE 85-8》1985年、東京ステーションギャラリー
全体の構図を観ながら一気に描いていくのではなく、少しの面積を埋めて、積み上げていくように描くやり方は、写実的に描く画力に反して「作業」のように感じられる。そして、そのコツコツと描き進めていく作業が、機械にはない揺らぎを生み出し、画家の存在を示す。それを吉村自身は「ただ機械のように、自我を殺し、淡々と手を、目を動かした時間、空間がこの瞬間に燃え上る」と語っている(「この瞬間」とは、絵の最後のマス目を描いた瞬間のこと)。
《バラ》2004年、みぞえ画廊
草花を描いたシリーズもど迫力。一枚一枚の葉や花びら、絡まった枯草の一本一本まで緻密に描かれている。一つひとつの細かい草花が一体となってひとつの風景を作り上げている様子は、彼の積み上げた先に全体がある描き方に近いのかもしれない。
東日本大震災が制作の動機となった藤の花の絵には、驚くべき量の細かい花が連なっている。吉村は花のひとつひとつが亡くなった人の魂だと思って描いたという。作品と思いが重なった気がした。小さなものをきちんと描いて、大きなものを作り上げる。まるで、絵本『スイミー』のラストシーンを、たった一人でやり続けたみたいだ。
《無数の輝く生命に捧ぐ》2011-13年、個人蔵
展示を観終わって外に出ると、東京駅舎の壁のレンガや街路樹の葉が急に解像度高く見えて来た。超絶技巧とは、手の技術のことだけじゃない。彼のものの見方にも表れているのだろう。
【吉村芳生 超絶技巧を超えて】
開催期間: 開催中-2019年1月20日(日)
休館日: 月曜日[12月24日、1月14日は開館]、12月25日(火)、12月29日(土)-1月1日(火・祝)
開館時間: 10:00 - 18:00 ※金曜日は20:00まで開館 ※入館は閉館の30分前まで
入館料: 一般 900円 高校・大学生 700円