古典というと、現代の生活とは切り離された別次元のものと思いがち。でも、狂言師の野村萬斎さんは、そこにふわりと橋をかけてくれる。
たとえば『平家物語』についてはこんなふう。
「『平家物語』って、いまで言うプロモーションビデオのようなものだったと思うんです。義経がどんな人だったか。どのような出で立ちをして、どんな馬に乗っていたのか。琵琶法師によって、こと細かに色鮮やかに語られた。映像のない時代に語りを聞くだけで、想像力で3Dのようにリアルな姿を思い浮かべることができたんですね」
室町時代から650年続いている伝統芸能、狂言。萬斎さんは和泉流の名家に生まれ、父・野村万作さんは人間国宝だ。3歳で初舞台を踏み、世界中で狂言を演じる一方で、イギリスに留学してシェイクスピアを学んだり、NHKの朝ドラ『あぐり』に出演して、全国的な人気を博したり。
狂言の型を使いながら、日本語の豊かさを伝える斬新な教育番組『にほんごであそぼ』は15年目を迎え、現在、主演映画『花戦さ』が絶賛公開中。2002年より世田谷パブリックシアターの芸術監督を務め、古典芸能と現代演劇の融合を試みながら、未来のクラシックレパートリーを生み続けている……となんとまあ活動の幅広いこと!
7月には、同劇場で「平家物語」を現代劇に転化した木下順二作『子午線の祀(まつ)り』を上演。萬斎さんがこの作品に主演するのは3度目だが、今回は演出も手掛け、平成版の新たな舞台を企んでいるらしい。
というわけで、冒頭の説明があったのだ。
「子午線、とは、経度のようなものですね。いま私がどこに立っているかというと、宇宙的視座からみれば、東京の三軒茶屋の世田谷パブリックシアターにおり、時間軸では2017年○月×日○時×分に立っている。『子午線の祀り』という作品は、1185年の壇ノ浦に座標を合わせ、マクロの視点から、源平合戦を見つめたものなんです、というと現代的に感じるでしょ?」
過去のものをそのまま踏襲しても、現代を生きる人に響かなければ意味がない。萬斎さんはさまざまな手法を駆使して、いまを生きる人につなげる「翻訳作業」に勤しんでいる。
「近年の変化は激しいですから。室町時代と江戸時代で、人の価値観はそれほど変わらなかったろうと思うんです。たとえ政権が変わってもね。でも現代は、うちの爺さんと親父の時代の間だって、電話やテレビが登場して、さらにインターネットが出てきた。情報量が圧倒的に増えているし、それだけ、人間の質も変わってきているはず。そのギャップをどう埋めていくかですよね」
それでも狂言が650年も受け継がれてきたのは、普遍的な人間の本質を描いているから。
萬斎さんは様々な表現方法を通して、「本質を伝えることが使命」と思っているのだろうか。
「僕が本質を理解できているかどうかは疑わしいですが(笑)、本質を知りたい、伝えたいと思って生きていることは間違いないですね。そうでないと、狂言は生き残れないという思いもどこかにあります。時代に迎合してしまったら、狂言が狂言でなくなってしまうし、僕のアイデンティティも揺らいでしまう。時代とどう折り合いをつけるか。ある種、時代を自分に引き寄せるくらいのことが必要で、それには、ジャンルの枠を自分から飛び越えて、僕という座標軸を感じてもらうことで、狂言に関心を持ってもらえるかもしれないですね」
どんな仕事をしようと「狂言師である」という基軸は揺らがない。しかも、世界中でどれだけ評価を得ても、なかなか満足できないらしい。
「満足はできないでしょう! この世ほど、人間ほど不思議なものはありませんし。ただ、満足はできないけれど、作品を通して、僕が提示した宇宙観に共感してくださる方がいたとき、それは、〈なぐさめ〉にはなりますね。僕の作品を観た方が、なにかしら心震えたのなら、生きていてよかったと思います」
いまや、自分の好きな場所で、手のひらのなかで映画やドラマを楽しめる時代。劇場に生の舞台を観に行くという行為の重さも痛感している。
「わざわざチケット代を支払って、電車賃払って劇場にまで来て、数時間座席に拘束されるわけですから(笑)。それだけの時間とお金をかけてものを僕らは見せないといけないんですよね」
一度見逃したら、2度と同じものを観ることはできない、尊い瞬間。
「舞台芸術は無形の文化。その日、その場にいなかった人に、どれだけ説明しても感動をまったく共有できない(笑)。花火のように散るはかないものです。いまを生きる人間が、同時代に生きる人に観せて、『生きていること』を共に実感できる。それが、ライブパフォーミングアーツの根幹だと思います」
作品内容を理解しようと頑張らなくてもいいと萬斎さんは続ける。
「世の中では、わからないことがまるでいけないことのようになっていますが、そんなことはありません。観た直後に理解できなくてもいいんです。あれはどういうことだったんだろう? という気持ちが体のどこかにずっと残って何日もひきずる。そしてあるとき、こういうことか! と腑に落ちる瞬間が来る。そこに人間の生きる楽しさがあるんじゃないかと思うのです」