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藤原ヒロシ「パンク終焉ですべてが変わった」|あの頃、何をしていたのか vol.1

藤原ヒロシ「パンク終焉ですべてが変わった」|あの頃、何をしていたのか vol.1

ジャンル横断的にカルチャーを発信する先駆者。2000年代以降の新しい表現者の筆頭。 ともに“今”につながる種は80年代にあった。


パンク終焉ですべてが変わった

80年代に入って、自分もそうだし、周りのみんなの意識もガラッと変わったと思います。

70年代後半、パンクの影響を受けていて、ファッションと音楽にどっぷりの生活でした。やはりセックス・ピストルズの衝撃は大きかったですね。1979年にシド・ヴィシャスが死んだこともあって、人生で最初に夢中になったカルチャーの終わりを感じていました。

パンクから急速に離れた人も多かった。ただ、前年代が確実に終わったからこそ、新しい“何か”にどんどん進んで行ける。80年代とはそういう気分から幕が開けたのではないでしょうか。それ以降、こういう終焉と始まりみたいなものはありません。情報は世界中でつながっていて、一度生まれたコミュニティはそのときどきで大きくなったり小さくなったりしながら、ずっと残る。

82年、高校を卒業して、セツ・モードセミナーへ入学しました。3週間で辞めたということになっているけど、どれくらい在籍していたか正直覚えていないんです。東京に来るのが目的であって、別に勉強をしたいわけではなかった。上京の口実にするのに、最適な学校だったのだと思います。

藤原ヒロシ

高校時代にも、伊勢から東京によく遊びに来ていて、M​ILKの大川ひとみさんとはそのときに知り合いました。今みたいに簡単に情報は手に入らないから、自分が動いて、興味があるところにどんどん入っていくしかない。周りの人間はどうだったかな。そこまでの好奇心や行動力はなかったのかもしれませんね。

80年代に入っても、ヴィヴィアン・ウエストウッドとマルコム・マクラーレンが手がけたセディショナリーズの洋服を集めていたのは70年代へのノスタルジー。でも、ずっとイギリスのスタイルは好きでした。上京前からいつかはロンドンに行きたいと思っていたところで、ツバキハウスでの「ロンドンナイト」のファッションコンテストで優勝して。これも82年かな。副賞でエアのチケットをもらってラッキーでした。

知り合いに紹介された外国人のモデルを頼ったり、今考えるとバイタリティがありましたね。とにかく、“そこ”に行かないと手に入らない、見られないものがあるので躊躇はなかった。英語はぜんぜん駄目でしたけど、何とかなりました。

飛行機を降りた瞬間に目に入ってきたロンドンの景色が薄暗くてびっくりしました。逆に、ファーストインプレッションがそれで良かったのかな。ナイトクラブに行くと、めちゃくちゃきらびやかで。パンクが終わってニューロマンティックが流行っているときだから、とにかく派手。東京のキラキラとはまた違います。あとは、縦社会がないところが楽しかった。年齢や職業が違う人たちが横のつながりを持つというか。カルチャーが生まれる背景を知った気がしました。

藤原ヒロシ

1カ月くらい過ごして帰国する際は「絶対すぐに戻ってきたい」と「仕事をしているわけではないので難しいかな」の気持ちが半々でした。ロンドンの風景をたくさん撮影した写真を見ると、後者のほうが強かったのかもしれません。

でも、なんとかお金の目処もたって、83年に再び行くことがきたんです。ヴィヴィアンとマルコムの店、ワールズエンドに通っていたら、ショップの人と仲良くなって、暇なんだったらってことで店番をやらせてもらったんです。日本から来た小さな子どもという感じで、みんなよくしてくれました。

ロンドン滞在中、突発的にニューヨークへの旅を決めました。理由はヒップホップ。70年代後半から気になってはいましたが、このタイミングで本場の音を体感したいと。そのモチベーションのみでした。現地ではオシャレ感がゼロで驚きましたね。音的にはニューヨークのほうが純粋によかったけど、ヨーロッパ的なファッションはまったく感じなかった。でも、やっぱり触れるものはすべて新鮮でした。東京では手に入れられない情報ばかりで。

本格的にDJを初めて、バブルの頃はいろんなブランドのパーティに呼ばれました。景気がよくて、1回やれば30万円もらえるときもありました。当時の自分にとっては大金です。ある香水の日本初上陸のイベントで回しているときは、セレブ的な芸能人である芳村真理さんがDJブースに来て「素敵な曲ね」って言ってくれたことを鮮明に覚えています。

並行して、レコード会社からの依頼でリミキサーをやったり、(高木)完ちゃんとヒップホップユニット、タイニー・パンクスを組んで、いとうせいこうさんと一緒に『建設的』というアルバムを出したり。自分の主体性というより、流れに乗った感じもあります。ただ、他の人より早めに気づいたからこそ乗れたのでしょう。

藤原ヒロシ

生意気にも、近田(春夫)さんに「そんなラップカッコ良くないよ」と言ったこともありました。でも、海外に行ってちゃんと“そのもの”を見たりとか、本質的なものに触れてきた自負はあったと思います。周りは個人的なヒップホップの解釈をしていたけど、僕が知る王道のマナーからしたらやり方が違うよと。サンプリングを自由にやって、それっぽい感じでやればいいんじゃなくて、しっかりビートと、そこについた音楽というかフレーズを使うのがヒップホップなんだと。みんなが探り探りやっている状態で、とにかくカタチになればいいという状況もあった。自分はある程度ルールに則った上で、まあギリギリのときもありますが、そこで面白いことをやるのが一貫したスタイル。80年代、ヒップホップに触れた意義は大きかった。

でも、程なくハウスっぽいものに寄って行きましたね。89年に近田さんが小泉今日子さんのアルバム『KOIZUMI IN THE HOUSE』をプロデュースして、その後に自分が『No17』に携わるのも自然な流れだったと思います。

その頃は、世の中の気分も変わりつつあった。88年くらいからかな、「仲間内のTシャツを作ろうよ」みたいなことが始まり、それが裏原宿カルチャーにつながって。80年代はみんな迷った挙句に尋常じゃなくギラギラしていたものがあって、それは間違いじゃないんだけど、きちんと理解した上で90年代はシンプルな思考になっていく。世の中的には難しいかもしれませんが、ダラダラと続けるよりも1回ちゃんと終わらせたほうが、新しいことは始めやすい。それはパンクの終わりの中で得た教訓かもしれないですね。

藤原ヒロシ ふじわら・ひろし

1964年生まれ。音楽プロデューサー、ミュージシャン。アルバムに『slumbers』『slumbers 2』など。fragment designを主宰し、さまざまな分野のブランドにデザインを提供している。

Illustration: Miu Ukawa

GINZA2021年12月号掲載

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