吉本ばなな
曲名♪雨の街を
そこにカラオケがある。だから、行って歌う。
ある日のこと。何げなく手にとった雑誌を繰っていると、お友達と和やかにカラオケを楽しむ様子を綴ったエッセイが目に飛び込んできた。書き手は小説家の吉本ばななさん。ばななさんといえば、忌野清志郎さんやニルヴァーナに捧げた作品も書いている生粋の音楽好きだ。「これは!」と思いオファーすると、即答で承諾してくれた上、取材場所に下北沢のとあるカラオケボックスまで提案してくれた。
「三度の飯よりカラオケが好きなイタリア人の友だちがいて、彼らが来日するたびにここに来るんです。彼らはここのピザも好きなんですよ。『ピザじゃないけど美味しい』って言っていました(笑)。あ、これ使ってください」
そう言ってばななさんがくれたのは、カラオケの割引チケット。何という心配りだろうか!と感動に浸りつつ聞いてみた。ズバリ、カラオケはお好きですか?
「好きって言うより、あるから行くって感じです。でも、自分からはそんなに行かないんですよ。地方に行ったときくらいかな。もう苦しくなるくらいお腹いっぱいに食べすぎて、このままホテルで寝るのはまずいってときに、ちょっとでもカロリーを消費するために行ったり」
「そこにカラオケがあるから行く」然り、「体を動かしに行く」然り、ばななさんのカラオケとの向き合い方はどこかアスリートを思わせる。とくれば、若い頃に現場で苦境に立たされた経験もあるんじゃ?
「ありますね。20代の頃、ミュージシャンでイラストレーターの原マスミさんたちとカラオケに行くことになったんですよ。しかも、ステージがあるようなスナックに。そんなところで、原さんを前に歌うなんて罰ゲームだよと思いながらも、命令のように『歌え!』って言われたんで、島倉千代子の『愛のさざなみ』を歌いました。あんなに度胸がつく経験は他にないですよ。文学賞をもらって海外でスピーチをしたときより緊張しました(笑)」
そんなばななさんの気になるオハコは、「雨の街を」。松任谷由実さんが荒井由実時代に発表した、隠れた名曲だ。
「声の質とキーが私に合っているんですよ。だから、どんなに喉の調子が悪くても歌えるんです。この曲は小学生の頃から大好きですごく聴き込みました。とにかく松任谷正隆さんのアレンジが素晴らしい。イントロのピアノには、『こんな完成されたアレンジが作れるなんて、この人は天才だな』って、小学生ながら生意気にも思っていたくらいです。由実さんの原点はここにあると思います」
ユーミンと言えば、ばななさんのお父上、思想家の吉本隆明さんも著書の中で触れていた。中島みゆきさんとの対比で、中島さんは高度経済成長期の日本の都市化に対する郷愁を歌うのに対し、ユーミンはそれを肯定していると。「雨の街を」もまさにそんな曲のひとつと言えるかもしれない。そう言えば、隆明さんとカラオケに行くことはあったのだろうか。
「ありましたよ。父はとにかく髙橋真梨子が好きで、いつも『ジョニィへの伝言』や、ペドロ&カプリシャスの曲を歌っていました。あとは森繁久彌の『琵琶湖周航の歌』。あの曲はおじいちゃんとカラオケに行ったときに歌うと喜ばれますよ(笑)」
ところで、ばななさんにはこれからオハコにしたい曲があるという。ダスティ・スプリングフィールドの「恋の面影」だ。
「(菊地)成孔さんがライブで歌っていて、感動しちゃって。どうしたらあんなふうに歌えるんだろうかって……なんでそんなことを真剣に思っちゃったのかしら(笑)。だけど、上手く歌えるかなと思ったけど、歌えなかった。だから、練習してるっていう状況ですね」
「雨の街を」/作詞・作曲・歌=荒井由美