当然のことですが、本を読む場所や時間は人それぞれ違います。読む冊数やペースも異なりますが、この行為は一貫して孤独で想像力の溢れたものです。移動中の電車の中やカフェ、公園などたくさんの人と同じ空間にいても、本を読んでいる人の心は跨がった馬と大草原を駆け抜けていたり、無人島でひとり脱出方法を考えていたり、気のおけない仲間たちと冒険にでるところだったりするものです。(突拍子のない例えではありますが)誰もが本の中の言葉を追う中で明らかになっていく物語や書かれている人物の生き方から自身の内面へと思考をめぐらせ、限りない想像力で身の回りの出来事に目を向け、世界をゆっくりと変えていきます。いまこの瞬間も読書という小さな行為があちこちで誰かの心に革命をおこしています。
今回紹介する本の著者であるフランソワーズ・サガンもまた10代の頃にサルトルやプルースト、ニーチェ、ドストエフスキーらの言葉に触れるなかで、心に灯をともし自身を更新していった小さな革命家でした。本との関わりが早熟だった少女は1954年に18歳で小説『悲しみよ こんにちは』でデビューし、批評家賞を受賞したのち文学的スターとなります。(まさに革命・・!)本書はそんな彼女が39歳までに語った自身のこと––笑い、踊り、音楽を聞き、人生を楽しみながら「孤独と恋愛」をテーマに小説家として言葉を積み重ねた日々––がインタビューとしてまとめられた一冊です。
サガンが39歳のときに自ら手を入れてまとめたインタビュー集。
22歳の時に自身がハンドルを握っていたアストン・マーチンで大事故を起こして死にかけたり、求められれば通りすがりの人に小切手をきったり、ギャンブルにアルコール、薬物常用など破天荒な人生をおくった作家の言葉のすべてには同意できないでしょう。しかし、「人生の小さなドラマに対して、自分を嘲弄して、ユーモアをたっぷり持つこと」(p.71)「犯してはならないとわたしが思うのは簡単なものばかりです、他人を尊敬すること、他人を愛すること、人を苦しめないこと。」(p.172)「人の孤独と、どういう風に人はその孤独から逃げるかということがわたしにとって一番大事なことです。」(p.70)「自分の中にあるもっとも極端なものや、自分の矛盾、趣味や嫌悪や怒りとつかみ合いをすることによってのみ、人生がどういうものか、ほんの少し、ほんの少しですが理解できる、」(p.6)など物事へのしっかりとした態度とまっすぐな言葉は私たちが生きる上で避けられない物事について改めて考えるきっかけとなってくれるように思います。
すべてのページに印象的な場面や言葉が抜き出してあります(左上)
気になるサガンの言葉がみつかるはずです
本書の最後「––最後に、何か念願でもおありですか?––」(すごい聞き方ですが・・)という質問に対して「10歳に戻りたいです、おとなでありたくないのです。それだけです。」と答えています。これはきっと「10代」ではなく「10歳」ではなければならなかったのだと思います。18歳という若さで誰もが知る小説『悲しみよ、こんにちは』の作家となるまえのフランソワーズ・コワレ(本名)としての自分をもう一度生きてみたいという願いがこめられているように感じてしまうのです。特に本を読みだしたのは12歳の頃と本書に書かれていることから彼女にとって10歳とは、本の世界にも触れる前の本当の意味で何者でもないころを意味しているのかもしれません。
そしてユーモアと想像力を愛した彼女に敬意を込めて、この本の読み手ひとりひとりがフランソワーズの異なる人生を想像してみたとして、それがどんな生き方だとしても彼女と彼女の残す言葉はきっと私たちを惹き付けるでしょう。
そうやってひとりの女流作家に思いをはせる時間は、とりわけて一日の終わりのベッドサイドという誰もいないプライヴェートな場所が似合うように思います。孤独を見つめ続けた彼女の言葉は、夜とともに静かに世界を開いていきます。