日本には黒っぽい城と白っぽい城がある。それはどうしてなのか? 城郭に詳しい小和田哲男先生に聞いてみた。
「通説では豊臣秀吉は派手好きで屋根瓦に金箔を貼ったので、その黄金色がよく映えるように黒い城を築き、徳川家康はそのアンチテーゼとして白さを求めたと言われています。しかし好みの問題だけではないだろうというのが最近の説です。戦国時代、城は戦うための拠点ですから、敵に見つかりにくいよう黒っぽい方が都合がいい。逆に関ケ原の合戦以降はむしろ権力の象徴や政治の場として、目立つ城が好まれたと説明することもできます。また、白漆喰が高価であるのに対し、板を黒漆で塗るほうが安価で早く仕上がるという経済的理由もあります。特に江戸では火事が多かったので、防火の役目も果たす白漆喰がより多く使われるようになりました。とはいえ、江戸時代以降黒い城が姿を消したわけではありません。幕末に再建された松山城の主は当時徳川の縁戚である松平氏でしたが、初代城主の加藤嘉明が黒い城を作ったのを引き継いだと思われます。一方、白い城の代表格といえば姫路城。築城した池田輝政は家康の次女と結婚したので義父から莫大な資金援助を得て、毛利氏など中国地方の大名たちに睨みをきかせる壮麗な城を建てることができました。現在皇居がある場所には大規模な江戸城があったのですが、本丸御殿は焼失し、富士見櫓など3つの櫓が残るのみです。しかし三重の立派な櫓で、これは天守の代わりに使っていたものです」
解説_小和田哲男(日本城郭協会理事長、静岡大学名誉教授)