誰かの思いや考えが形になり、それを受け止める私たちがいる。つまり、アートは超パーソナルな営みだともいえる。ここで紹介する私的な言葉で書かれた本は、親密さがあり、エモーショナルで、自分勝手。気軽にアクセスできるメンターだ。ルームウェアに着替えて、本を携えたら準備OK。ベッドルームから、素顔のまんまアートに触れてみよう。
まずは、アーティスト自身の言葉から。現代美術の価値を変えてしまったマルセル・デュシャン。1960年代に行われたインタビュー(1)は、親しみの持てる語り口が印象的だ。その中に、「わたしはアートってものを信じない」みたいなドキっとする言葉がふいに挿し込まれる。果たしてこの語りは、真意なのかはぐらかしなのか?謎にどっぷり浸かりたいなら、ソフィ・カルの『本当の話』(2)がうってつけ。「ヴェネツィア組曲」は、パリの街なかで見つけたひとりの男の後をヴェネツィアまで追って尾行した記録。簡素な記述と盗撮写真は探偵日記のよう。これは本当に見知らぬ男なのか、やらせか。秘密のゲームは、リスキーなのにどこか洒落ている。まるで、恋の駆け引きみたいに。
ミランダ・ジュライは、普通の人生に輝きを見つける天才だ。『あなたを選んでくれるもの』(3)は、フリーペーパーに不要なモノを売る広告を出す人々に会いに行き、話を聞くプロジェクト。女性になるべく手術を頑張る初老の男、古びたドライヤーを売る、顔中ピアスだらけのシングルマザー……。売り手たちの一筋縄ではいかぬ事情と趣向の多様さに、アメリカのでっかい懐を感じる。アーティストの生き様(?)を知りたいなら、会田誠のエッセイ(4)が痛快でおすすめ。彼の日々のあれこれは、作品同様、反骨精神だらけでぶっ飛んでいる。すごいのは、その観察眼。家族、旅先の異国、教育事情、社会の歪み、自分自身までをも冷静に観察・分析しちゃっているところが、笑えるのに恐ろしい。
アーティストの恋人、パートナーは、アートの親密さと激しさを教えてくれる。パティ・スミスが、ロバート・メイプルソープとの年月を細密に書いた『ジャスト・キッズ』(5)は、壮大な愛の物語。自分が同性愛者だと気づき、目覚めていくロバート。傷つきながらも寄り添うパティ。2人が恋人同士だった期間は意外にも短い。それでも支え合い続けた関係を可能にしたのは、芸術への愛に他ならない。『クートラスの思い出』(6)もまた、芸術が結び付けた愛の結晶だろう。クートラスの最後の恋人だった著者は、彼から繰り返し聞いた話をもとにその生涯を書いた。貧しいなかで制作を続け、かなりの偏屈だったクートラス。なのに、本にはクートラスへの慈愛が漂っていて、ひたすらに優しい。
作品とパーソナルな関係を結んだ観客の言葉は、すごくエモーショナル。じゃあ自分はどう見るのか?を問わずにいられない。ポール・オースターの妻で小説家のシリ・ハストヴェットは、長い時間をかけ、ひとつの作品をしつこく見る(7)。フェルメールの《真珠の首飾りをもつ女》を見て、これは受胎告知なのでは?とひらめき、キリスト教絵画との類似点をじりじりと追求していく。最終的に絵の中の窓枠に〝あるモノ〟を発見する—。サスペンス小説みたいにスリリングな鑑賞体験。トン子ちゃんのハマり方もなかなか(8)。「人間の生きる力そのもののオブジェ化!」と、岡本太郎の作品に衝撃を受け、キックボードで暴走。モネやレンブラントの作品にも価値観を揺さぶられまくる。「太郎サ(岡本太郎)」の教えを受けて人として成長していくトン子は、とってもかわいい。
クラシックスも、もちろん良い。でも、今この時代だからこそのアートもある。哲学者の鷲田清一がアートと社会の錯綜した関係を綴るとき、そこには東日本大震災が大きく横たわっていた。この本(9)には、宮城県の北釜に移住した写真家の志賀理江子が登場する。風景や人々に演出を加えて撮影する志賀に、わからないまま進んで協力する近所の人たち。同じ土地で生活し、被災した経験を経て作られた作品は、その時その場所で生きていくための「術」なのだ。「マンスプレイニング(男性が女性に偉そうに解説する)」という流行語を生みだしたエッセイを含む、この本(10)の主題はフェミニズム。女性が晒されているハードな現実が綴られるなか、中盤の文芸・美術批評のくだりに救われる。謎を愉しみ、自ら道に迷うことの大切さを説く著者、ソルニット。想像力の欠如が問題とも言われる現代、彼女は芸術に希望を見出している。
本からアートの迷路に彷徨う勇気を得たら、次は自分で作品を見てみて。いつもなら、わかる/わからないで即座に判断しちゃうところをここはひとつ、「わからない」に賭けてほしい。そうして出会うアートは、人生をサヴァイヴする心強い相棒になってくれるはずだから。