──北斎は画家でありながら、現在でいうデザイナーであり、パフォーマーでもありましたもんね。
若い頃から何の疑いもなく生涯通して絵を描き続けてアーティストとして生きた人ですよね。だからこそ、後に天才と呼ばれるようになる人なのだろうと思いますし、粘り強く続けたもの勝ちなんだなと思いました。
──北斎は画号(ペンネーム)を30回以上変えていることでも有名ですが、俳優もいろんな名前を使い分けますよね。役の名前に引っ張られるということもあったりするのでしょうか?
一生のうちに画家としていろんな名前を使っていたというのは、北斎ならではのエピソードですよね。僕自身意識したことはなかったのですが、確かに俳優もいろんな名前を使い分けてますが、自分好みの役名のときには、すごくテンションあがります。もしかすると北斎も「この名前、ふざけたわりに絵としっくりくるな」みたいな感覚があったかもしれません(笑)。
──春画を描くときに使ったという「鉄棒ぬらぬら」だったり、最後の画号「画狂老人卍」だったり、北斎はユーモアを感じさせるネーミングセンスでも有名ですよね。
いいですよね(笑)。ふざけながらも、反逆精神が垣間見られるようなユーモアセンスがある人だったんでしょうね。僕が演じた青年期も情熱系でおもしろい一面もあるキャラクターだなと思いました。でもおもしろいだけではなく、ちゃんとそこにいろいろな含みというか、メッセージを持っている人物だと思うんです。
──北斎は阿部寛さん演じる、江戸出版界の名プロデューサーである蔦屋重三郎に焚きつけられ、才能を開花させます。これまで柳楽さんが焚きつけられた、という人物との出会いについて聞かせていただけますか
やっぱり、蜷川幸雄さんですね。特に『海辺のカフカ』(14)は初舞台だったので、焚きつけられたというか、かなり手厳しくご指導いただきました(笑)。今となっては笑えるエピソードでもありますが、当時はそんな余裕も無かったので、楽屋で心を落ち着かせるために瞑想音楽をかけてリラックスするようにしていたほどでした。20代前後は特に、自身にとって刺激的な作品やそういう人たちとの出会いがいくつもありました。
──そうした出会いのなかで、北斎が波をとらえたように、ご自身の役者としてのスタイルをとらえた!という瞬間はあったのでしょうか。
いまだに自分のスタイルを持ってるとは思っていないのですが、いろいろな作品に取り組ませていただくなかで、見てくれた人たちによって形づくられていくものなのではないかと思っています。こうありたいというイメージはあまり持っていなくて、やってみたいことには常にチャレンジしています。