作家、小原晩さんの新連載がスタート。部屋という限られた空間を通して、暮らしや心のありようを見つめる「生活態度」の記録です。
小原晩「生活態度」vol.1
心をいれかえる・柳宗理のフライパン

フライパンをすぐだめにする。まったくもって、あっという間にこびりつくようになる。焦げつきがはじまると、あとは早い。なにを焼いても、はりつく。どうしてこうも毎度同じことになるのか、と、ため息をついて、それでもしばらくは、だましだまし使ってみるのだけれど、やがてあきらめ、つぎのものを買うこととなる。つぎのものを買い、まただめにし、そのたびに、料理をする気もどこかへ行ってしまう。自炊など、もうやめてしまおうか、と思う。
それで、やっと調べた。どうしてフライパンがだめになるのか。
フライパンにはいろいろあって、鉄のもの、アルミのもの、それからほかにもあるけれど、わたしがなんとなく選んで、なんとなく使っていたのは、テフロン加工のものだったらしい。強火にしてはいけないらしいし、調理が終わってすぐ、水でじゃっと冷やすのもいけないらしい。そんなことをすると、コーティングがはがれてしまうのだそうだ。はがれてしまったコーティングは、どんなにやさしく扱っても、もう戻らないらしい。
そういうことを、わたしは十年くらい、知らずにいた。知ろうとしないまま、「またこびりついてる」とか、「どうしてなんだろう」とか、くちに出したり、思ったりして、でも調べはしないで、そのまま平気に生きてきた。
このたび、すっぱり心をいれかえる。
柳宗理のフライパンを、わたしの小さな台所へ迎えいれたのである。
まえまえから、あれはいいものだ、と、ひそかに目をつけていた。なんといっても、あのかたちのうつくしさ。
これは、鉄のフライパンである。鉄となると、なにかと手間がいる。使いはじめには、油をならす、という仕事がある。そういう手間を、いままで、わたしは恐れていた。テフロンですら、ろくに扱えないわたしに、鉄などとうてい無理だろう、と。そう考えるのは、ふつうのことである。
しかし、心をいれかえたのだ。できる。できる。
説明書をひらいて、書かれた文字を、ゆっくりと読む。それから、油をならす、という作業をしてみる。これでいいのか、よくわからない。ほんとうに、これが、ならす、ということなのか、自信はない。
でも、やってみれば、思っていたほどむずかしくはなかった。すこしだけ煙が出て、すこしだけ台所が鉄のにおいになって、それだけのことだった。
冷蔵庫のなかにあった、たまごを焼いてみる。焼ける、焼ける。ほくそえむ。ひとつ、ひとつ、焦らず、やれば、できるのだ、という実感はひとを勇気づける。