──1985年11月に発売された「ダンシング・ヒーロー」は、ビクターのディレクターの方が温めていた曲を、平哲夫社長(注1)が直感で依頼したと聞きました。
荻野目洋子さん(以下敬称略) 当時はデビュー2年目でなかなか芽が出ず、いろんなタイプのシングルを試していた時期で。トップ・チャートに入るにはどうしたらいいか、あと少し突き抜けるにはどうすればいいか。スタッフも私も、そういう気持ちが強かったんです。そんなとき、社長がたまたま聴いたこの曲を「絶対ヒットするから、ぜひ荻野目に歌わせたい」と。
──それまでとは大きく路線が違う洋楽のカバーでした。
荻野目 いきなり16ビートの世界でしたから。でもアンジー・ゴールドの原曲「Eat You Up」を聴いたときに、あまり抵抗が無かったんです。というのも、子供の頃から6歳上の姉のステレオで、岩崎宏美さんやアン・ルイスさん、大橋純子さんを聴いて、中学からはビートルズやビリー・ジョエルを英語で歌っていたので。デビュー当時、日比谷の野音で『フットルース』の主題歌をカバーしたこともあるし。そういえば今思い出したんですが、そのライブがすごい土砂降りで、カメラマンの方の機材が壊れるくらい。あれは私、今でも社長が雨男だったと思うんです(笑)。
──そのライブに行った人は、いろんな意味で貴重ですね。レコーディングはいかがでしたか?
荻野目 話が決まってから、すぐに録音して。Aメロとサビはなんとか歌えたんですが、その後の大サビで壁があり。ただ、何度もテイクを重ねていくうちに、突き抜けるような自分でも意外な声が出たんです。しかも、直後にラジオの公開放送で歌ったら、お客さんの反応がものすごく良くて。歌詞もまだ覚えてないような状況で、譜面を見ながら歌ったんですけど。さらに数日後にはテレビの歌番組も決まっていたので、今度は三浦亨(注2)先生のもとで、必死に振付の練習をして。その最中も三浦先生と平社長が、ああでもない、こうでもないと、ぶつかったり。
──みなさん手応えを感じて熱くなっていたんでしょうね。
荻野目 足を(ハの字に)動かしてビートを刻む振付を、当時まだ誰もやっていなくて。ビクターのディレクターの方が撮ってくれた8mmの練習ビデオを見ながら何度も練習したり。今思うと、レコーディング以降のプロセス一つ一つに、それまでとは違う緊張感がありましたね。そして、年末に出させていただいた『ザ・ベストテン』のスポットライトから火が付いて。
──ロングヒットで、’86年の年間チャートでも上位に食い込みました。実感はありましたか?
荻野目 目の前のことで忙しかったんですけど、街を歩くと声をかけられることが増えて、そこから少しずつ実感が。
──当時の『平凡』の編集者に聞くと、荻野目さんと平社長が、移動中の車でずっと歌唱法について激論していたと。
荻野目 それはビクターの方たちも目撃していて、今でも会うと必ず言われるくらい(笑)。歌番組やライブの後はいつも反省会でした。
──その熱意が現在のライジング・プロダクションを築いたのでは?具体的にはどんなことを?
荻野目 自分は感情表現に意識がいっているんですが、社長は音楽的理論で説明してくるので。「トントトンと来たら音にアタックして、同時にメロディの良さも意識して」とか。本当に細かいので、「もう社長、自分で歌手になって歌ってください」と言ったことも(笑)。でも指摘は間違っていないし、そんなことを言ってもらえる存在はかけがえがないので。アスリートで言うなら、コーチなんです。
──2017~18年の再ブレイクでは、米津玄師さんや中島みゆきさん、星野源さん、秦基博さんなどを抑えてカラオケチャートで1位になり、データ的に10代から60代までまんべんなく歌われたことも興味深いです。
荻野目 噂を聞いて浦島太郎というか、なんで、こんなにみんなバズってるんだろうって。80年代当時に大ヒットして、奇跡が起きることがあるのは感覚としてはわかっていたんですけど。どんなに努力しても、夢が叶わないこともあるし。音楽が好きでここまで来たので、ゾゾっと鳥肌が立つというか、2度目の奇跡が起きて本当に嬉しいという感じでした。
──「ダンシング・ヒーロー」は、盆踊りでも人気ですよね。
荻野目 以前から東海地区を中心にブームが続いていて。2001年に1度歌いに行ったことがあるんです。そのとき商工会の方が「いろんな曲を試してみるんですが、残っていく曲は少ないんですよ」とお話しされていて。確かに再ブレイクするずっと前から、あのイントロがかかるだけで、みんな瞬時に笑顔になるんですよね。「ダンシング・ヒーロー」という曲は本当に強いものを持っていて、流行り廃りがないんだなと。
──ご家族の反応はいかがでしたか?
荻野目 いろんな歌番組やレコード大賞まで出させていただいたので。子供たちも「マミー、HIKAKINと共演ってすごいね」とか「Mステ出るの?」と言ってくれて。ちょっぴり尊敬のまなざしで(笑)。1人1台ケータイを持ってそれぞれが好きな曲を聴くこの時代に、3世代から支持されたのは、自分でもすごいことなのだと思います。
──「ダンシング・ヒーロー」もそうですが、ライジング・プロダクションの楽曲には日本的なメロディがちゃんとあります。
荻野目 ちょっとせつなさもあるんだけど、聴いている人をワクワクさせる。それはやはり、社長の感性が反映されていると思います。私自身、映画を見ていても、涙は出るんだけど元気も出るハッピーエンドのストーリーに惹かれるので。
──当時「ダンシング・ヒーロー」に続くシングルが楽しみで、「フラミンゴinパラダイス」の売野雅勇さん作詞、NOBODY作曲、船山基紀さん(注3)編曲という布陣にしびれました。
荻野目 あの曲はまず、NOBODYが歌っている英語詞のデモテープが本当にかっこよくて。こんな曲を私が歌わせてもらえるんだ、と嬉しかったのをよく覚えています。
──まさに「ダンシング・ヒーロー」の大サビの声を生かしたパワフルな曲。
荻野目 そうです、そうです。
──当時いろんなアーチストが日本語のロックやダンスビートを模索していて。その渦中にいたという感覚はありましたか?
荻野目 うーん。自分のことで精一杯でしたが。でも作詞家の売野さんが、例えば「パラダイス」という言葉を「パラッダーイ」という言い方で音に当てて。メロディを生かす詞をご自身で歌いながら付けてくださっていたので。それも大きかったと思います。
──音の後ろにポイントを置く「裏拍」の歌い方も画期的でした。
荻野目 それは新曲のたびにすごく研究してました。レコーディングの譜面に、ここはこう歌うとかビブラートを少しかけるとか。それこそ真っ黒になるくらいメモを書いて。
──とてもインパクトのある歌声ですが、ボイストレーニングはデビュー前から?
荻野目 はい。大本恭敬先生(注4)のスクールに通っていました。当初はわりとビブラートをかけたり自己流で歌っていたんですけど。「基礎をちゃんと理解してから、まずはまっすぐ発声して、楽曲をきちんと伝えることが大事だよ」と教わったので。それから、歌い方も変わっていったんですよ。
──荻野目さんの歌唱法の原点がそこにあったんですね。