──『みゆき』の声優は14歳から?
荻野目洋子さん(以下敬称略) はい。中3の1年間、千葉の自宅から電車で通っていました。学校が終わったあとに週1回、新宿のスタジオまで。きっかけは1982年に受けた映画のオーディションで、その会社から声優のお話をいただいたんです。だから最初は全くの素人で、周りは大先輩ばかり。一番年下で、アフレコの現場ではお茶も入れていたんですよ。
──お茶まで!?演出についてはどんな指示が?
荻野目 それが全くなかったんです。誰からも手ほどきもなく台本を渡されて。しかも当時は全員同時に録音するので、NGを出すわけにいかないし。言われたのは、ただ一言「そのまんま、すっとんきょうな感じでいいから」と。これは本当に言っておきたいんですが、後々「荻野目洋子、棒読み」とか言われたことがあったので(笑)。
──いやいや、あの独特の「間」がクセになりました。
荻野目 それはもう、あだち充先生の魅力がそこに詰まっていると思います。「ふむふむ」や「どもども」などのセリフも。いまのSNS時代とは逆の、ゆっくりした時間の流れ。あだち先生の世界は、女性の心理描写が細やかで、男の子もピュアな気持ちを持ち続けてる。女の子もいじらしさがあるんです。
──荻野目さんも、主人公のみゆきと同い年でピュアな感じが良かったんだと思います。
荻野目 まだ芸能人として仕事をしているという自覚もなくて。『みゆき』の放送が始まって少ししたら、スタジオの外にファンの方が待ってくださるように。そのとき初めてサインをしたんですけど、「荻野目」だけでスペースがいっぱいになってしまい、横に小さく「洋子」と(笑)。
──声が認められてキャリアがスタートしたのは、自信になったのでは?
荻野目 その後NHKの朝の連続テレビ小説でもナレーションもやらせていただいたんですが、実は子供のときから、国語の朗読が好きで得意だったんです。だから、台本をめくりながらモニターを見たり、音を立てずにページをめくったり、そういったことが自然に出来たのかもしれません。
──「ダンシング・ヒーロー」ではグルーヴ感のある歌声が魅力的でした。
荻野目 あの曲は洋楽のカバーということもあったんですが、大サビのところでスコーンと抜けた瞬間があって、自分でも意外な声が出たんですよね。
──当時「荻野目ビート」という言葉も流行りました。
荻野目 作詞家の売野雅勇さんに最近伺ったんですが。例えば売野さんは、自分で口ずさみながら、響きに迫力のある言葉をメロディーに付けてくださっていたそうで。それに私が応えていくという感じでした。等身大よりは、少し華やかな世界を詞の中に作ってくださって。
──再ブレイクについては、どんなふうに感じましたか?
荻野目 自分自身がいちばん驚いてます。モノマネをしてもらえるのも嬉しいし。高校生たちが踊ってくれたのも感激しました。「ダンシング・ヒーロー」が盆踊りになったのも本当にありがたいことです。盆踊りは日本の文化だと思うので。
──80年代の鮮烈な記憶と言えば、何が思い浮かびますか?
荻野目 私、今でこそ「バブル」の印象が強いと思うんですが。歌手デビューする前は、声優の仕事とレッスンが夜遅くまであったので、いつも22時くらいに恵比寿駅の西口にあった〈ルノアール〉で、父と待ち合わせしていたんですね。それから千葉の実家まで一緒に帰って。だから私の80年代の記憶は、電車の中で見た、たくさんの方の背中なんです。「バブル」を支えて一生懸命働いていたみなさんの。あと、あの頃って今みたいにスマホもPCもなかったから、必ずみんな1対1で対面していましたよね。なので今でも友達との会話やお仕事も、まずはちゃんと会って話すんです。すると必ずいい結果につながるので。
──『みゆき』のセリフの「間」も、アナログな会話と同じですよね。
荻野目 そうです。だから私、ブログの書き出しは「ども」から始めるんです。『みゆき』のセリフを思い出して。それが、昔からのファンの方と一瞬で気持ちが通じる挨拶なんですよね、今でも。