なんだか心が疲れたなぁと思ったときは、ストリップを観に行きます。
浅草駅からロック座に向かって歩いているうちに足取りは軽くなり、ファンの方々から贈られた花やバルーンをワクワクしながらくぐり抜けてチケットを買い、いざ重い扉をぐいっと押し開けたその先には、なんとも形容しがたい煌びやかな世界があります。そして帰り道には心のエネルギーがフル充電され、前向きな気持ちで電車に揺られているのです。
初めてストリップを観に行ったとき、“温泉地で見かけた看板”や“あのピンクの照明のコント”から勝手に思い描いていたイメージは大きく覆され、眩いステージにすぐに夢中になりました。踊り子さんの細部までコントロールされた美しい動きの奥には、ただならぬ体幹の筋力と柔軟性が見え隠れし、そこから溢れ出す「官能」は極めて芸術的。完璧なエロティックを演じながらも客席に向けられた彼女たちの温かい目線は、煩雑な日常でうっかりどこかへ追いやっていた自分の女性性をやさしく包んで受容させ、なんだか自信を持たせてくれるかのようです。そんなストリップの魅力にはまった私は、忙しく働く友人たちを誘っては浅草ロック座へと繰り出し、パワーチャージをしています。
このストリップのもたらす高揚感と満足感、「よし!明日も頑張ろう」と思えるやる気はいったいどこからくるのでしょう。
日本最古のストリップが記されている「古事記」や江戸の「春画」に、そのエネルギーの根源を見出すことができるのではないかと考えました。
ストリップが放つ「笑い」という神聖なるエネルギー
男女の交わりが大胆に描かれた春画ですが、江戸時代には「春画」という単語自体がなく、「笑い絵」と呼ばれていました。当時この「笑い絵」は、単にポルノグラフィティーとして楽しまれていただけでなく、まじないや呪術的な物としても用いられており、戦に勝つためのお守り、子宝に恵まれるためのお呪い、女性は長持に入れると衣装がたまる、などとされていたのです。こういった春画の持つスピリチュアル的な側面が、「笑い絵」と名付けられた所以なのだと思われます。
古くから人は、神の怒りを鎮め祝福を受けるために、宗教的儀礼として「神に笑われる行為」をしてきました。古事記にはアメノウズメがアマテラスオオミカミを天の岩戸から呼び出すために、裸になって踊る場面があります。アメノウズメがストリップのような踊りをして八百万の神々の「笑い」を引き起こすのですが、この「笑い」には “おかしい、滑稽である”という言葉どおりの意味とは別に、“神を喜ばせる行為によって幸いを得る”というスピリチュアルなニュアンスも含まれているのです。
この、いにしえの時から脈々と日本人のDNAに刻まれ伝えられてきた「笑い」と称される神をも喜ぶエネルギーの存在を、私たちは無意識のうちに現代のストリップから感じ取っており、それによってときに励まされ、元気になるのではないでしょうか。
むき出しの裸体に興奮するわけではないのです
ストリップのステージでは、踊り子さんが始めから裸の姿で登場することはめったにありません。着飾った衣装を少しずつ脱いでいくその過程を、非常に美しく見せてくれるのです。じつは日本の春画には全裸の人物が描かれている作品は少なく、たとえ全裸になっているものであってもそのほとんどに脱いだ衣装が描き込まれています。春画の価値は、直接的な性器結合の描写だけでなく、着衣や室内の装飾などの描き込みも含めて高い芸術性を併せ持っているところにあると思います。真っ裸になって踊れば誰でもセクシーに見えるかと言えばそういうものではなく(むしろやれと言われても間抜けで滑稽な自分の姿しか想像できない)、計算されつくした照明やステージ演出、きちんと訓練された裸体の見せ方があるからこそ、ストリップの様式美が成立し、そこにひとは感動するのでしょう。
夏バテの心と身体に気合いをいれるべく、ストリップへ行ってみてはいかがでしょうか。浅草ロック座の向かい「まるごとにっぽん」にあるKAMPO煎専堂で自分の体質に合った漢方煎薬をテイクアウトカップに注ぎ入れ、それを飲みつつストリップ鑑賞するのが房中養生的にオススメです。
今年は元日から矢沢ようこさん(↑あまりの美しさに写真集も入手)を観に行きました。圧巻のステージ。イチ推しのストリッパーを応援していくのも楽しみのひとつです。