バングラデシュにルーツを持つ、シャララジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
前回記事「身に染みていく装い。後編」はこちら。
バングラデシュにルーツを持つ、シャララジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
前回記事「身に染みていく装い。後編」はこちら。
今回のテーマは頭でっかちで不器用な私の、本との切っても切れない不思議な関係性についてだ。
本と私には長い因縁の戦いがある。本との関係性は常に刺激し合いながらも、決して飲み込まれないよう、偏ってしまわないよう一定の距離を保つことに尽力してきた。
私と本との歴史は小学生の時に始まった。小学生までの私は基本的に無口で、人間にあまり興味がない一人遊びが好きな子供だった。東京に来たばかりで、日本語がまだ流暢でなかったこともあり、学校ではほぼ会話をせず、ドッジボールの誘いなども全て断り、休み時間から授業中、学校では常に本を読んでいた。といっても私が読んでいたのは「怪談レストラン」という児童文学のシリーズで、基本的に怖い話がベースの世界中の様々な話が折り込まれているオムニバス形式の内容だ。私が初めて読んだ本の言語が日本語であることは、今思い返してみると感慨深い。バングラデシュにいた頃はまだ小学校低学年だったこともあり、本を読む段階までに至っていなかった。代わりに向こうでは英語とベンガル語の詩をたくさん覚え、英語の作文を書けるような教育を受けていた。私の言語レベルは読むこと、書くこと、話すこととそれぞれで偏っており、三つの言語が混じっていて本当にバラバラだった。そんな状態の私は日本語によって統一され、読書という地点までたどり着いた。私の精神年齢を言語で分析するとしたら、日本語年齢1歳で読書をスタートした。そして自分はどうやらその日本語の活字と相性が良かったみたいで、知らない世界をいくらでも教えてくれる「本」という存在は私にとって魅力的だった。
中学に上がり、言語レベルが上達すると共に言語への感受性も強くなり始めた私は、自分の中に入ってくる活字の影響力の強さを実感し始めた。本にはどんな世界のことも書いてあったし、その情報はとても正確で密度の高いものだった。本は読めば読むほど私たちを賢くしてくれるが、経験が伴っていない12歳の子供がそこから得る知識と膨大な情報をどれくらい許容し、消化して血肉としていけるのだろうかと私は疑問を持ち始めていた。
本からの強烈な影響力を感じてしまっていた私は、若い価値観がとても柔らかく影響されやすいものであることをよく自覚していた。影響されるのはとても良い場合もあるが、その頃の私は頭の中で繰り広げられる思考の中の、「自分自身の考え」と「引用」の境界とその関係についてとても気になっていた。リーチ出来る情報量が格段に増えた世代であることも影響しているかもしれないが、はち切れそうな量の情報が学びとなって、自分の血肉となる基準は全くわからなかった。インターネットは常に隣にあって、すぐそこにある膨大なデータの中からはどんなことも検索できた。滝を実際に見たことがなくても、滝の画像を検索することができたので、「滝」のことを知っていたし、経験したことがなくても、知らなくても、知っていることがたくさんあった。しかし私たちはググってもわからないことのググり方は知らなかった。検索ワードが見つけられないと見つけることができない、検索ワードからこぼれ落ちた情報は存在さえ認知できないようなデジタルネイティブの世代だ。
17〜21歳の頃、感覚が成立していく過程で読んだ本たち。
人間は結局今まで見聞きしたもので構成されており、他者との関わり合いによって存在しているという事実は当然あるかもしれない。それでも少しでも自分の目で見て、耳で聞いて、足で歩いてきた経験値や物事と対峙しながら、自分自身の頭を使って考えた出来る限りのオリジナルな考えと、意図的に集めた本や映画や漫画や音楽で得た、引用の知識の線引きはどこにあるのか、12歳の頭ではとても判断できそうになく、その境目を判別できるほど自分の感覚に自信がなかった。自分が経験したことだけがオリジナリティを構築するものだと断言できないし、オリジナリティとは何なのか?と言う疑問を抱えながらも、本だけを読んでいていくら情報を得たとしても、それを経験し記した著者のような深い智慧は得ることができない。見たことも経験したこともないのに、読んで情報として入れてきたものだけの、様々な著者の考えのコピーのような、パッチワークされた思考で固められた自分になるのがとても怖かった。華厳の滝を見たことがなければ、滝の周りが意外にも涼しくて、ミストのような水滴が飛んできて、そしてその荘厳で壮大な様を体感しなければ、「華厳の滝を知っている」とは言えないのではないかと私は感じた。
私はいま日々恐る恐る本を読んでる。ページを一枚一枚めくりながら、本の中の一つ一つの情報に自分が侵食されていくことに怯えながら、自分の中のなけなしのオリジナリティが消えてしまうのではないかという不安と闘いながら、それでも知りたいと思う心と、自分の世界の解像度を上げるために読んでいる。知識はそれだけでは役に立たないが、自分の頭で考える力を持ってきちんと自分の身体に流し込むことができれば、それは大きな力になるからこそ、自分の理解が及ぶタイミングで取り入れる。先人たちが残していった素晴らしい知恵を、畏れ多い気持ちと同時に私も共有したいという思いと共に受け取り、学んでいる。
思春期の頃の自分はこんな未来を想像したこともなかったが、自然な流れで文章を書くことになった私があの頃活字や情報を取り入れることに対して、強く反応を起こしていた理由を今こうして振り返ることができる。文章を書く上で誰かのコピーになってしまうのではないかという恐れがそういう考え方の構造にしたのではないかと自分に納得できた。自分の中の感受性と対話をしながら、ゆっくり自分に見合ったペースで本を読み新しい世界を知っていきたい。
バングラデシュをルーツに持ち、東京で育つ。国籍や人種の区別にとらわれない存在感で、モデルとして、雑誌や広告、ランウェイなどに登場。2020年には〈LOEWE〉のキャンペーンモデルに抜擢された。最近では文筆業も盛ん。
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