南アジアにルーツを持つ、シャララジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
前回記事▶︎「vol.17 インド系の人間が温泉に入り続けてたらどのような美肌効果を得るのか?」はこちら
シャラ ラジマ「オフレコの物語」vol.18
南アジアにルーツを持つ、シャララジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
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最近見たNetflixオリジナルのドラマ『アドレセンス』。広告とかで見たわけでもなく、リアルで会う人に見た!?と言われてじわじわ口コミで気になっていった作品。
正直映画は大好きだけど、ドラマにはかなり疎い。昔から苦手だった。その一番の理由は話の続きを待たなければならないこと。もし、世界で「待つのが苦手選手権」が開催されるとしたら確実にオリンピック選手になれる自信がある。交差点タイプの信号だって赤になっちゃうと、わざわざ青になった信号を渡ってコの字を描いて遠回りするほどだ。これを聞くとせっかちと思われるかもしれないが、なんていうかせっかちというより気になり出したら止まらないタイプの方だ。次にあのハラハラ感。ドラマは基本的に観客を惹きつけるため、映画よりは強めにハラハラがちりばめられているように思う。私はとても影響されやすく操作されやすい人間なので、監督の思い通りに過剰にハラハラしてしまうのだ。そして最後には長さ。シリーズものになって長くなるともう見られなくなってしまう。前述の通り、続きが気になると何も手につかなくなるタイプの人間なため、寝る時間をぶっ飛ばし気持ちが収まるまで見続けちゃう。長めのドラマで唯一見れたのは『ブレイキング・バッド』で、それもブランク込みで約三年かかった。
そんななか今回私はドラマを紹介させていただく。だが安心して欲しい、この『アドレセンス』は4話でしっかり完結する、ドラマと映画の間のような感覚で見ることができる作品だ。
見始めてすぐにとても気に入った点がある。それは音の良さが尋常じゃないところ。イギリス英語がまるで音楽のように入ってくる。完全に言語フェチASMR。それぞれの人種と方言のフローが交差して混ざり合ってハーモニーを生んでいて私にとっては完全に音楽だった。音声が超優秀であるかと思われるが、確実に声がいい人を選んでるようにも思う。かかる音楽もいいし確実に音にもフォーカスしているなと思う内容だった。そして何よりも映像。なんと1話約60分ほどある内容をワンカットで撮っている…!!はじめは臨場感と撮り方のかっこよさに圧倒されて気が付かなかったが、その勢いもワンカットに裏打ちされたものだった。まるで自分がそこにいる登場人物になれるほどの臨場感を生んでいた。またその映像自体にも心地よいリズムがあって、音声と合わせてすごく音楽的な作品に感じたのが第一印象。
その後事態はそれどころではなくなってくる。ストーリーが社会的にも衝撃の内容だったのだ。ある少年が起こした殺人事件の全貌をドキュメンタリー的に追って物語は進んでいく。なにがネタバレになってしまうか、難しい内容ではあるが、誰しも経験する思春期のバッドトリップにSNSというツールが深く入り込んできた結果どんなことが起きてしまうかを描いている。当事者の少年少女だけでなく、その親たちの苦悩が身につまされて、私たち観客も、他人事じゃない気分になってしまう。子供から大人までいる幅広い登場人物の中に、観るものも年代や経験によって自分と重ねてしまう役があるのではないだろうか。
核にあるテーマは古からあるような性差による違いを描いていると思った。このドラマを見た女性と男性では、解釈や衝撃を受ける場面も違うのではないか。初めの一周は気軽な気持ちで見始めて、釘付けになって一気見してしまったが、男性の感想が欲しいと思ってすぐにパートナーに見てもらった。特に3話では思春期に異性を意識し始める時に生まれる互いに対する嫌悪感とその感じ方の違いというような、言葉で説明できない感覚を映像体験として描いていたように思う。この話だけは物理的にゾゾっとなったのが印象深い。このゾゾはまさに動物として感じる部分が反応していると思う。ライオンに狙われたシマウマの「やばい!食べられる!!」という気持ちだ。この感じ方にはたぶん性差があるので、ぜひ異性と一緒に見てほしいなと思う。
もう一つの重要なテーマとしては家族の在り方。未成年が非行に走る場合、何かしら家族関係の中に病理があると考えられることが多いが、そんな風潮を吹っ飛ばす内容だった。家族との関わりよりも手前に入り込んで、個人と個人が繋がることを可能にしたSNSの影響。
ここでは二つの搾取が起きていることを描いていると思った。ひとつ目は、家族の仲は良くても景気が悪くなるにつれてお金のために時間と労働力を搾取される労働者の両親。家族との時間がまずは犠牲になる。忙しさに追われて子どもから目を離さざるを得なくなる。そして二つ目がSNSによって奪われる時間と自信。家族と深く交流することがなくなってしまった現代の子どもたちは手の中の箱に夢中になることで時間を奪われていく。教育を受ける前に有象無象の価値観に染まってしまい、トンチンカンな比較のすえ、自信を無くし続ける。この労働者の子どもたちは家族の時間も社会に吸い取られているうえ、自分自身の時間や人格さえもSNSを通して二重に吸い取られているという構造が示されたように感じた。社会の搾取が我々の世代はあまりにも深く、多重構造すぎてボロボロで、誰だっていつだって犯罪者になり得るくらい崖っぷちにいると思わされた。
個人的にはすごくマクロな視点で、私たちが自動的に社会に吸い取られているものは何か?それは時間と自信であるということ、そしてそれらは現代の世の中で一番価値があるものだということもわかった。自分を守り、現状を変えるためには「時間」と「自信」を確保し続けなければならない。
そして最後にもうひとつ、このドラマで注目すべきは、殺人を犯したという現実と虚構との区別がつかなくなってしまうようなイノセンスを上手く描き出していた点だ。捜査を行う刑事が“Does anyone understand what death is?"と問いかけるシーンがある。主人公の少年はあまりにイノセントすぎて、現実と虚構の区別もできないままに事件を起こし、そのことへの理解が浅い。その様子は、現場を知らない人たちが戦争を決め、殺戮につき進んでいったりすることや、どこかで戦争が起きていても画面の中の物語にすぎないように感じる私たちにもすごく似ていると感じた。
Text_Sharar Lazima