作家、小原晩さんのエッセイ連載。部屋という限られた空間を通して、暮らしや心のありようを見つめる「生活態度」の記録です。
小原晩「生活態度」vol.2
風の思い出・Colemanのinfinity chair

子どものころ、窓を開けるのがいやだった。部屋のなかがぬくぬくとあたたまり、いい感じになってきたと思うと母は現れ、「空気が悪い」とぷつぷつ言って、ベランダのとびらを開け放つ。風が吹き込むと、体温が奪われる。空気が悪いとはどういう意味なのか。少なくとも、わたしにとって、それは「あたたかい空気」のはずだった。
けれど、わたしも大人になって、空気の悪さ、というものがわかるようになってきた。なんというか、ぬるさ、重たさ、いやな感じがあるのである。たとえば長い昼寝のあと、そういうものを感じる。すると、わたしは窓を開ける。ベランダの向こうから流れこんでくる風は、するり、Tシャツと肌の隙間を通る。
友人と住んでいた部屋があった。引っ越す前の、最後の一週間。部屋にはもう、ベッドと、座布団が一枚しか残っていなかった。がらんとしていたけれど、案外、落ちついた。夜になると、ベランダの窓を開けて、座布団にぺたりと座って、月を見た。無数みたいな屋根を見た。夜空に霞む山を見た。ぼんやりと、目にうつるもの、すべて見た。そのあいだずっと、風が吹いていた。風が髪の根もとにふれて、髪をすくうように持ちあげ、それは耳に触れて、また離れていった。
昨年の夏から、ときどきサウナに行くようになった。熱さをこらえ、水風呂をたのしみ、風のなかで休む。それを繰り返すことによって、ひとは整うらしい。整うことがどれなのか、それはまだ、わたしには、あれなのだけど、ともかくわたしは、風、風の存在に心をうばわれた。そして知ったのだ。風をたっぷりと感じようと思ったら、椅子はなるべくやわらかく、座るというより、寝そべるようなものがいいのだと。
そういうわけで、わたしはバスタブとベランダのある部屋に引っ越した。となると、風のなかで休むときの椅子が欲しくなる。半年くらい迷って、よく行くスーパー銭湯で慣れ親しんだ椅子を買った。
お湯をあがって、濡れた髪のまま、ベランダの椅子に身体をあずける。背もたれが深く倒れて、視線はまっすぐ上にのびていく。空がある。心もとない星がある。最寄りの星だ、と心の中で思う。それだけでじゅうぶんに足りてしまう、そんな夜。自分のなかの空白に、何かを押し込まなくてもいい時間が、まれに、こうしてやってくる。季節が秋に向かってずれていく、その手前の、ぬるい風が肩にふれた。体温はゆるやかに、すこしずつさがっていく。
Text &Photo_Ban Obara Edit_Tomoe Miyake