2020年1月27日、37歳の若さでこの世を去ったアーティスト、ジェーソン・ポラン。長年親交のあったRisa Nakazawaさんが、追悼の意を込めて想いを綴ってくれた。彼の創造性が永遠に私たちの心の中に生き続けるように。
ジェーソン・ポランが残したもの。37歳の若さでこの世を去ったNYのアーティスト

NY中の市民に愛されたアーティスト
JASON POLAN(ジェーソン・ポラン)が亡くなってもう少しで1年が経つ。彼は、NY中の市民全員を描く「Every Person in New York」というプロジェクトを、亡くなるまでの15年もの間、休むことなく続けてきた。NYの全ての人を描くという野心的なプロジェクトに多くの人が魅了された。
時に、遠くで見えたビヨンセが描かれていたり、ハンバーガー屋で居眠りするおじいさんが描かれていたり、NYで愛されている写真家のロバート・フランクの玄関のドアであったり。そのどれもが彼の温かみのある線で描かれている。
NYの友人によるとありとあらゆる街角で彼を見ない日はなかった。「今日朝ジェーソン・ポランが地下鉄の中で絵を描いてるのを見かけたよ」「今日夕方ジェーソン・ポランが角の郵便局で絵を描いていた」とまるで芸能人を見つけたかのように、会社の同僚や友人に報告されるほどだ。15年間で、彼が使ったStrathmoreのDrawing Padの数は6000冊。三菱のUniballの数は数百ダース。出来上がった絵の枚数は数万枚という数だ。
そのおびただしい程の数の作品は決まって同じ透明なケースに年代や月毎に入れられており、いつしか彼の家を訪れた時に見せてもらったが、「実はここにあるのは全体の1/6なんだ」と照れ臭そうに言うから驚いた。私は、そんな量の作品を手掛けている作家に未だかつて会ったことがなかった。それも1日も欠かさずだ。
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Two good hats, some sleepers, some readers and a good musician. #qtrain
そんな彼が37歳という若さで癌で亡くなった。
そのあまりに急で残酷な事実と衝撃に、NY中のクリエイターやクリエイティブインダストリーにいる彼を取り巻く多くの友人の心に大きな穴が空いてしまった。私もその一人だ。
国内外の作家を日本や世界中のクライアントとつなげる仕事をしている私にとってもジェーソンは特別なアーティストだった。一番最初に一緒に仕事をしたのは、〈ユナイテッドアローズ〉が2014年に行った25周年のメインビジュアルを手掛けた時。それから幸運にも、ジェーソンが〈ユニクロ〉のキャンペーンのプロデューサーとして私を指名してくれて、彼が〈ユニクロ〉とコラボレーションをする度にも一緒に仕事をした。日本とNYをお互い行き来して過ごすうち、いつしか私たちは親友となっていた。
彼の熱意とアイデアにはかなわない
ジェーソンが考えるアイデアはいつも機知に富んでいて最高だった。MoMAに貯蔵されている全てのアートワーク『Every Piece of Art in The Museum of Modern Art Book』は『Every Person in New York』と同じ位有名な作品だ。今は無き〈Colette〉の名物バイヤーのSarahが食い入るように読み込んでいるのをご覧頂ければ、いかにこのシリーズが素晴らしいかがわかると思う。
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そもそも、この作品を作るに至ったのは、ジェーソンがMoMAでキュレーターとして働きたいという熱意を伝えたかったからというバックストーリーも面白い。これだけ、僕はMoMAを愛しているんだと伝えるかの様な、一種のラブレターと言っても過言では無い。(MoMAでキュレーターにはなれなかったけれども、この本はMoMAに所蔵され、そして私が買いたいと思った時にはとっくに本は売り切れていた。)
もう一つ有名なジェーソンのプロジェクトは『Tacobell Drawing Club』だ。これはファストフード店のTacobellに集まったら、誰でもジェーソンと一緒に絵を描けるという主旨のプロジェクト。参加者はラミネート加工されたメンバーシップカードをジェーソンからもらえた。誰しもにアートを身近に感じて欲しいという思いでスタートしたものだった。
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ジェーソンと過ごした日本での時間
ジェーソンが日本に来日する時は、私がパートナーと東京中を案内した。4回の来日で彼は野心的なミッションを掲げており、1日に多い時は10箇所もの場所を動き回り、ひたすら絵を描いた。私が色々な日本の文化の説明に熱心になっている間に気付くと、一人で喋っていることに気付く。
そう、ジェーソンは何かを見つけると、どうしてもそれを描きたいのだ。その場に留まって描き始めてしまって、私もそれに気が付かずに一人で歩きながら喋っていた事に数分経って気付く。1日の中で何度もそれが起きるので、私も鼻歌を歌って誤魔化す技を習得した。
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ジェーソンの行きたい場所はどれもバラバラのコンセプトだった。
帝国ホテルにフランク・ロイド・ライト氏が手掛けた部分が残っているようであれば、と言うようなリクエストであったり、〈コム デ ギャルソン〉の川久保玲さんに偶然出くわしたいから彼女がよく行っているという蕎麦屋さんに行きたいと言うようなことであったり、フクロウカフェ、伊丹十三監督のたんぽぽの舞台となったラーメン屋、麻布十番の鯛焼き屋さん、蚤の市、キュレーターの様な視点で商品を販売しているニッチなお店などだ。
ジェーソンが印刷物をこよなく愛しているのを知っていた私が彼を中野ブロードウェイに連れて行ってからというもの、彼は昭和のオモチャのメンコや、野球のカードなどを通る店で大量に購入し、あまりに沢山購入するのでお店の店主と仲良しになってしまった位だ。毎回日本に来る度にお店に行くので私よりも常連さんとして、お店で顔を覚えられていた。
「New York Art Book Fair」にて
ジェーソンが癌を宣告されたのは、不運にも彼の誕生日の日だった。宣告されてから、彼が亡くなるまでに、私はもっと深く彼を知る事になった。ジェーソンがスタートしてから一度も欠かさず出展していた「New York Art Book Fair」に出るかどうかを長らく悩んでいる時に、私は迷わず伝えた。
「日本から手伝いに行くから、1日に1時間で良いから出展しよう」
暫く悩んだ後、ジェーソンは私を含め数人の近しい友達に「New York Art Book Fairに出ようと思っているんだ。助けてくれる?」との連絡がきた。そこに一緒にメールされていたメンバーは今では私にとっても大切な友達となった。元New York Timesの編集者のStaceyやドイツで有名なイラストレーターのStefan Marx、スケーターで写真家のMichael、LA TimesのフードライターのPeter、装丁デザイナーのHans、美術大学の教授でアーティストのRobinなどだ。
私は、会社のスタッフの2名と共にブースに立って、彼の手伝いを行う事にし、New Yorkに向かった。そこで、病気の事を知らずにジェーソンに会いにきた人達と出会い、彼の人柄をさらに深く知る事になった。
ユダヤ教の友達であったり、ジェーソンに子供の絵を描いてもらった主婦の方であったり、有名なギャラリストであったり、作家であったり、年配のカメラマンであったり、音楽家であったり、若い学生であったり、7歳の子供であったりとバラエティに富んだ人々。多くは「Taco Bell Drawing Club」のメンバーで誇らしげにお財布やポケットからカードを取り出して見せてくれた。一つ共通して言えるのは、皆、彼の事が好きで、ジェーソンを通してNew Yorkの良い所をこよなく愛している人達だ。
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ジェーソン・ポランが描き続けてきたNew Yorkへのラブレターは、多くの人の心を温め、まるでアメリカの多様なカルチャーを容認し包み込み様な優しさに溢れている。