〈エンダースキーマ〉が営むスペース「隙間」で開かれている、水谷太郎氏の写真展『淼/びょう』。展示初日に、水谷氏よりSF(Soulful)作家の山塚リキマル氏による手記が編集部へ届いた。新しい作品群から受け取った、瑞々しく克明な体験をここにシェアする。
隙間7.0での写真展『淼/びょう』に寄せて「おどる風/およぐ光——水谷太郎のまなざし」

4月8日から16日にかけて、蔵前のギャラリー・隙間で開催されている、写真家の水谷太郎による展示『淼/びょう』を鑑賞した。ひとことでいうならとても不思議な展示だと思った。ひじょうに無意識で無防備なのに、野心的だしきわめてコンセプチュアルだ。まるで子供が書いた絵日記のように純度の高いまなざしと、“写真を撮るとはどういうことか?”という問いかけが同居している。
水谷が昨年の冬にベルリンで撮った未発表作品をまとめた本展は、すべて運河の水面を撮影したものだ。水流のない運河の表面に織り成された色彩の揺らぎや歪みは、端的にいってとても美しい。印象派の絵画のようなそれは『どんなサイケデリック・アートも自然にはかなわない』という、コテコテでベタベタな使いふるしの形容詞をわれわれに再確認させる。ACID理論に則って精緻に作り込んだヴィジョナリー・アートも、結局木の葉一枚にすら敵わないのだ。水谷は、踊る風と泳ぐ光が手を取り合って水面のキャンバスに紡ぎ出す、その瞬間にしか存在しないタペストリーを見事に切り取っている。その視線や手捌きに作為的なものは見られない。子供が道端にしゃがみ込んでなにかを熱心に覗き込むときのようなまなざしで、水谷は撮影をおこなっている。経験則や技術にとらわれないその純粋なまなざしは、作品にある種のトリップ感をもたらしている。
だが、本展は自然が作り出す不思議なパターンに着目した、単なるネイチャー・ドキュメンタリーではない。水谷はさまざまな角度からその作家性をただよわせている。たとえば本展の作品はすべてデジタルカメラで撮影されている。なので、美麗きわまる作品群に近づきよく観察してみると、ピクセルのバグによって輪郭が微妙に崩れていたりほどけていたりしているのだが、そんなふうによく見なければ気づかない、小さじ一杯の違和感が隠し味となって作品に独特の質感をもたらしている。
また、本展の作品はすべてレタッチやトリミングといった加工を一切おこなわず、上下を反転させている。つまり撮影した瞬間の光彩や距離感をそのまま採用しながらも、実像と虚像をたくみにすり替えているのである。そうして生じる小さじ一杯の異物感がconfusionを生み出し、意識と無意識の境界線をぼかしている。水谷はデジタル機材を用いつつも、そのアドバンテージを“映え”の方向に活用しないことによって、『画像』と『写真』の違いをわれわれに考えさせる。テクノロジーとは手作業による不確定要素を排するものだし、デジタルとは質量を排するものだが、水谷はテクノロジーの不確定要素や、デジタルが持つ重みを表現しようとしているようにみえる。それは、誰もが日常的に撮影し、画像編集さえ行うようになった現代に対する問いかけである。コンテンポラリー・アートの定義は『現代社会が抱えている問題を提起し、批評するもの』だそうだが、そういう意味において本展は紛れもないコンテンポラリー・アートだといえよう。
写真のみならず、額装や展示方法もきわめてコンセプチュアルだ。作品を収めている額には別枠で作品証明書も添付されているのだが、それにはサインのみならず、日付、撮影地点の座標と地図、カメラの設定からデータのバイト数までが書き込まれている。レコードでたとえるならば、ライナーノーツで使用機材やセッティングが開示され、オマケに譜面がついてきているようなものだ。これは、ロラン・バルトが要約した写真の本質『それは=かつて=あった』をつぶさに説明するものであると同時に、『画像』と『写真』の違いを浮き彫りにしようとする試みでもある。水谷はデジタル素材の写真にデータを並べることで、そこから滲むナニカを表現しようとしているのではないか。そのナニカこそが、水谷がかんがえる『写真』の正体なのだと思う。
作品を鑑賞した後、水谷とデヴィッド・ホックニーの話をした。ホックニーは最近、iPadを使って絵を描いているのだが、その作品群がマジでヤバいという話題で盛り上がった。『定年退職したおじいさんが趣味で始めた絵。みたいな無意識さがあるっすよね』と僕がいうと、水谷は首を振って『いや、でも定年退職したおじいさんが始めた絵っていうのは、大体褒められようとしてるから。ホックニーはもうそこ超えちゃってる。でもあれだけ無意識なのにちゃんとキマってるから凄いよね』と笑った。このホックニーにも似た凄みを、僕は本展から感じる。本展で水谷が見せているのはセンスでもテクニックでもなくニュアンスだ。純度の高いまなざしと現代社会に対する問いかけが、滅茶苦茶カッコいいニュアンスをただよわせている。
『写真家ってさ、よそ見するのが好きな奴じゃん』と水谷はいった。水谷がベルリンを歩みつつ垣間見た美しい時の数々——サイケデリックな“よそ見”をぜひ体感してほしい。
隙間7.0 水谷太郎写真展「淼/びょう」
Text: Rikimaru Yamatsuka