活字からむくむくと沸き立ってくる食欲。思わずキッチンに駆け込みたくなる衝動。 食を描いた作品には、日々の食卓だけでなく、生き方までがらりと変えてしまう力がある。 そして、自分の味の記憶や歴史をも掘り起こす。食べ物とは、自分自身のことなのだ。#読んで味わう、本と料理
平松洋子「読んで味わう、本と料理」|伊藤比呂美『ウマし』、山崎佳代子『パンと野いちご』etc.

【選・文 平松洋子】
ウマし
伊藤比呂美
詩人、伊藤比呂美の偏愛する卵かけごはんは、ほとんど生卵に近い。卵液にごく少量のごはんを浮かせてすすり飲む比呂美方式だが、その卵の味は亡き父につながっている。
女として、母として、娘として、アメリカと日本を激しく行き来しながら獰猛果敢に生きてきた道のりに浮上する、おびただしい食べ物。得意の包丁使いを駆使したアーティスティックな切り方《オレンジ・シュープリーム》を披露し、書く。《なんだか自分からするりとむけて出てきたみたいに見える》。
パンと野いちご
戦火のセルビア、食物の記憶
山崎佳代子
戦火をくぐり抜け、難民となった友人たちは何を食べ、どのように命を繋いだのか。
1991年夏、バルカン半島のセルビアで内戦が勃発。ベオグラードに住む著者も10年近い戦争時代を過ごし、友人たちと日々を共有しながら食べ物の記憶や体験に耳を傾け、ひとりひとりの足跡を掘り起こしてゆく。
彼らから直接聞き取った伝統料理のレシピも紹介。著者の親友リュピツァの声が鮮烈だ。《食べ物とはね、思い出のこと。料理とは、蘇りのこと》。
富士日記
上・中・下巻
武田百合子
読み返すたびに、思う。あらゆる食べ物は、針と糸で縫い込むようにして生の時間を強化するのだ、と。昭和39年7月から51年9月、富士での暮らしの記録。淡々と記す日記の言葉に、武田百合子の眼の敏捷な動きがぴたりと貼りつく。
天衣無縫、唯一無二の言葉のきらめき。そして、生の時間には死や離別が織り込まれる。身近な人々との別れ、子犬の不意の死、病を得て弱ってゆく夫の姿。長大な日記の言葉のなかで、しだいに食べ物の陰翳が濃く深まってゆく。
土と内臓
微生物がつくる世界
D・モントゴメリー、A・ビクレー
ごく身近に生息する微生物との関係によって、私たちの身体と自然が直結していることを解き明かす。著者夫婦はそれぞれ地質学者と環境計画を専門とする生物学者。私的な日常や病気体験によって、身体と庭や植物、土壌などが有機的に結びついている事実と向かい合う。
免疫学や進化史をはじめさまざまな知見によって、体内に広がる小宇宙を見出す過程はスリリングでさえある。健康と科学をリアルに合体させる必読の書だ。
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平松洋子
食文化と暮らしをテーマに執筆を行う。『野蛮な読書』で第28回講談社エッセイ賞を受賞。本誌連載「小さな料理 大きな味」では手軽でおいしい料理案内も。
Illustration: Yu Yokoyama (BOOTLEG) Text: Yoko Hiramatsu, GINZA