作家・朝吹真理子の約10日間イタリアの訪問記。後編ではミラノを旅する。前編はこちらから。
朝吹真理子の訪問記〈信号旗K〉特別編【後編】
ミラノにて
21日 ヴェニス→ミラノ 晴れ
夜明けに白湯をのんでいると、茶粥かシュークリームがむしょうに食べたくなる。パリに長く住んでいるひとが、若い日本人アーティストの多くが食で挫折する、と言っていた。米に興味がない人の方が活動しやすい、ということか。取材だとなんでも食べてみたいけれど、制作期間に入ったらみょうにおいしい料理より食べなれたものの方が嬉しい。食べものは体に入ってくるから衝撃が大きい。おにぎりとか食べなれたものがいい。青みがかった毛足の長い絨毯が気持ちいいので、裸足でうろうろしながら荷造りをする。耳の石がずれることで生じてしまうめまいがなぜか悪化していて、うつむくたびに、頭がぐらぐら揺れ、壁に手をおく。甲板の上で生活している気分になる。以前、石巻の芸術祭に参加していたときにこのめまいの病気になってしまったけれど、そのときは漁師さんと朝3時に定置網漁の船に乗る約束をしていた。めまいが強過ぎてもう乗れないかもしれない、と前夜ベッドに横たわりながら思っていたけれど、なぜか漁に出たらめまいが治った。あのような奇跡がミラノで起きてほしい。
パッキングが苦手で何度も出し入れしているうちに焦ってきて、最後はまたじぶんが乗っかってトランクをしめる。七階の部屋から運河をみる。ヴェニスにいるあいだじゅう、窓からの景色に逐一驚いていた。目がちっともなれないままで、さいしょは数日いたら海景にも飽きるのではないかと思ったけれど、夢心地で終わってしまった。大名たちの名代でイタリアに行った天正遣欧少年使節団も、毎日驚いていたんじゃないかと思う。彼らの足跡も辿ってみたかったけれど何もできなかった。
もしまたくることがあれば運河に船でやってくる地元住民むけのフルーツマーケットで買い物がしたい。毛利さんはそこでよく買い物をしていたらしく、展示の果物も船の上で買ったときいた。
ホテルから駅までは、また水上タクシーに乗る。十人ほど人をのせると、別便で運ぶのかと思われた大量のスーツケースを運転席にはこびこんでいる。てきとうに積まれるから、いちばんうえのスーツケースが波の上で船体がはずむたび、スーツケースもバウンドする。じぶんのスーツケースではないからちょっと笑いながらみていた。
あつこさんから電車のチケットをいただき、ふらふらパン屋でお菓子とコーヒーを買って、電車の時間を待っていた。予定されていたホームではないところに電車がなぜかついてしまい、みんなであわてて小走りで移動する。電車に乗り込んだはいいけれどスーツケース置き場が満杯。二時間ほどの電車の旅で停車駅も多く、毎度この大荷物を確認しながら乗るのか、と思っていると、あつこさんが、スーツケースを車内のてすりにくくりつける盗難防止ひもを何度もかばんからとりだした。
座席でコーヒーをこぼしたら、掃除のおじさんに飲み物を飲むなと怒られたりして、車内はどんよりしたムードが流れていたのだけれど、遅れて、しゃれたジャケットを着たお爺さんが、やってくる。片手にはピンクがかった偏光パールの小さなバニティケースを持っていてフグのぬいぐるみが潰れて入っている。それに気づいてあつこさんが話しかけると、孫のためのプレゼントをたくさん買ってバニティに詰め込んだのだ、と言って見せてくれる。レインボー柄のカチューシャ、ピンクのビーズネックレス、青いゾウのぬいぐるみ、フグのハリセンボンはやっぱりバニティのすみでほかのものにおしつぶされていた。いろいろみせてくれるうちに、そのおじいさんが、不動産と和牛の投資信託をしていることもわかる。私は英語がわからないので「ワギュ」しかききとれなかった。おじいさんは指の一本だけなぜか青色のあざができていて、あつこさんに主治医に写真を見せたいから撮ってほしいと頼んでいた。傷めた理由がわからないらしく、青みがかった赤い色に皮膚が変色している。おじいさんはあつこさんに名刺を渡しそのまま去ってゆく。あつこさんはその後、東京でワギュおじいさんのお孫さんたちと会いお酒を飲んでいる。
ミラノ駅に着いたとき、集団行動で完全に気が緩んでいたのでチケットが見当たらなくなり、焦ってものをひっくりかえしていると、捨てようとしていたパン屋の包装紙のなかになぜかチケットも入れていた。
夕飯までの時間、プラダ美術館をのぞいたあと併設されている喫茶室に立ち寄る。闇雲に頼んだカンノーリがレモン味で柑橘類アレルギーで食べられず、みるだけになってしまう。その後、ブレラ美術館にむかう。ホテルから歩いてでかけるのだけれど、ミラノサローネの最終日で道はどこもかしこも混んでいる。デモもみかけたけれど、プラカードがイタリア語でなんの活動だったのかよくわからない。ブレラ美術館の一階は、ボッテガ・ヴェネタのミラノサローネ展示会場にもなっていて、長蛇の列。美術館に入るのは無理かも、とあきらめかけたところで、あつこさんから美術館は二階が入口だから列を気にせずあがってくるように、とメッセージがくる。階段をあがると静かに開館している。
いろいろ絵をみたいのだけれど、昨日倒れたばかりだから、中世のイコン、カラヴァッジオ、ティントレット、[死せるキリスト]のマンテーニャ。それだけみようと決めたけれど、思った以上に美術館が広い。けっきょくふらふら目が作品を追ってしまう。ローマ数字がよくわからなくて、じぶんの行きたい部屋番号がわからない。ファイナルファンタジーでみなれていたはずだけれど、ファイナルファンタジーの作品数より多い数になると読めないから、じゅういくつまでしか読めない。二十、がまずどう書くのかがわからない。さいきん死体の描写に関心があって、ティントレットの[聖マルコの遺骸を盗み出すヴェネツィアの商人たち]が想像より大きくて、赤い絨毯の上に横たわった聖マルコの描き方をじっとみていた。カラヴァッジオの[エマオの晩餐]は、暗いのだけれど輝いてみえる。小説を読んでいると、書かれたものは書かれなかったものの影だと思うのだけれど、カラヴァッジオの絵にも思う。闇にたくさんの気配や色を含んでいるから、白いテーブルクロスがより光ってみえるのかなと思って呆然としていると、振り返ったら、あつこさんが手をあげて椅子に座っている。あつこさんはミラノにくるたびカラヴァッジオをみていると言っていた。またどっと疲れて、ふらふらホテルの部屋に戻り、クローゼットの整理をし、今夜はドレスアップして行った方がいいレストランだときいたので、マメの水色のドレスコートを着る。靴もヒールはないけれどきれいな革靴に履き替える。ロビーについたら、雨がまた降っていた。海鮮の名店というランゴステリアは、室内がとても暗く赤っぽい照明がついている。たしかにまわりのお客さんも少しきれいめの格好で談笑している。さあ、何を食べようかと話しているなか、私はまた心がいっぱいで食べられない。高台付の銀食器のうえに、甲殻類や貝類が整然と並んでいて、エビが器の表面にぶら下がってピアスみたいにみえる。絞るためのレモンは、うやうやしくレースの布袋に入っていた。深夜、部屋に帰ってお風呂に浸かっていたら、なんのまえぶれもなくシャワーヘッドがおちてきて、顔にぶつかり、眉間の下が切れた。
Photo_Mariko Asabuki