作家・朝吹真理子の約10日間イタリアの訪問記。前編ではヴェニスを旅する。
朝吹真理子の訪問記〈信号旗K〉特別編【前編】
ヴェニスにて

数ヶ月前、飲み屋でわいわい八人ほどでしゃべっているとき「真理子、イタリアに行きたい?」と、あつこさんにたずねられた。あつこさんは今年イタリアのブチェラッティというジュエリーブランドのえらい人になった。ヘッドやCEOがどのような役職なのかわかっていないけれど、まわりのひとがうれしそうにしているのでわたしも嬉しく、めでたいねー、と乾杯していたら、社長、とふざけて呼ばれているので、あつこさん社長になったの?ときいて、わかっていないのにめでたいムードだけ感じ取っていたことが露呈した。その日、あつこさんをお祝いしていたひとたちの多くが美術の仕事をしているひとで、みなビエンナーレのオープニングにあわせて渡航するらしい。今年のヴェネツィアビエンナーレの日本館は、毛利悠子さん。いいねー行きたい。そう話していたら、あつこさんが、ほとんど手仕事でつくられるというブチェラッティの仕事風景をアイフォンでみせてくれる。ブチェラッティは四代つづくハイジュエリーのお店。超絶技巧をもつ職人たちが、ほぼすべて手仕事で制作している。丸いなめし革のうえで、ネックレスの彫金をしている。シルクのように光っているようにみえるけれど、ヴェネツィアンレースのように、絹のように、キャンバスのように、と、金に彫琢をほどこすことで布の質感を表現している。目にはやわらかいのに、もちろん金細工だから、かたい。ふしぎな宝石がたくさん並んでいる。この技法、みたくない?
毛利さんの作品みたい、工房見学したい、でも飛行機怖い、円安も怖い、ムリ、とぶつぶつ言っていたのだけれど、ブチェラッティのおよばれでヴェニスとミラノに都合十日ほど行くことになった。イタリアに行くのは高校生以来。ヴェニスのことを何も知らない。映画と須賀敦子の本のなかでしか知らない。
16日 出発日 東京→パリ(シャルル・ド・ゴール空港)→ヴェニス
飛行機が怖くて、一睡もできそうにないので、起きることにした。早朝四時、猫のはちゃぐみと長次郎もいっしょに起きてくれたのでちょっといい猫缶の朝ごはん。父が家の外まで送りだしてくれるとき、スーツケースが重たくてひっぱっていた父が転倒した。
パリまでは約十五時間。ずっと窓をみていた。以前、細野晴臣さんに飛行機恐怖症だと打ち明けたら、飛行機の上の般若心経はききますよ、とにやりと笑いながら教えていただいたのだけれど、唱えてもし怖いままだと余計おそろしいし、なにも悪くない細野さんを逆恨みしそうだから、唱えない。
Wi‒Fiを買えば恐怖もやわらぐのではないかと思い、30ユーロほどするのを買った。朝九時ごろに出発した便で、機内食で鶏肉の和風あんかけのようなものを食べるけれど、ほとんど残してしまった。CBDグミを何粒も食べて、くちのなかがオイルでぬるぬるになる。酔い止めを飲んで、『すばる』の連載を機内で書き、そのあと『GINZA』の原稿を書かないといけなかったのだけれど、書き途中で、窓のブラインドをしめるように言われ、機内が真っ暗になる。とつぜん擬似的な夜が来る。
この、機械的に夜がつくられとじこめられることがおそろしく苦手だったことを思い出す。高所恐怖症だから飛行機が怖いのではなく、閉暗所で、パニックになるのだと最近ようやくわかった。鍾乳洞は大丈夫だけれどミニシアターが怖い。でも、開閉できる大きな窓があれば、むしろ部屋自体は狭い方がいい。
まわりのひとはみな寝そべっている。静かにしていると憂鬱になってくるので、気を紛らわそうと映画一覧表をみる。バットマンがでてくる映画だということしかしらない『ダークナイト』を選んでつけてみる。チーズスナックを何個も食べながらみていると、映画の半分くらいのところまで、バットマンと対抗馬の男とをとりちがえて、違う人をバットマンだと思っていたことに気づいて一人で笑っていたから話においていかれ、さらにジョーカーという男もでてきて、よくわからないまま終わってしまった。そのあと『ジョーカー』をみた。封切り後すぐにこの映画を観ていた六十代の知人夫婦が、家に帰ったあと、妻が十代の息子にむかって、玄関先でわっと泣きながら、おねがいおかあさんを殺さないで、と言ったことを思い出しながらみていた。むしろ何か思いあたるふしがあるなら息子に先に詫びた方がいいのではないかとも思う。
Wi‒Fiをつなごうとしているのに、ずっとつながらないので不審に思って乗務員にたずねると、北極圏を通るので実質繫がらないのです、次回から買わないことをおすすめします、と言われた。先に言ってくれ、と思いながら、仕方がないので日本語吹き替え版の『シャイニング』を今度はみはじめる。

以前友達の家でチキンバーレルをかかえながら十人くらいでみた。そのときに怖がったから二度目は大丈夫だろうと思ったけれど、原稿が書けなくておかしくなるジャック・ニコルソンと、でられないホテルの閉塞感が、まっくらで轟音の鳴り続ける機内とあいすぎて、吹き替え版だと意味がわかってしまう。英語に戻したらとたんになにもわからなくなったので、ほっとして、つけっぱなしにして原稿を書く。うしろのおじさんがさかんに赤ワインを頼んでいて、ボルドーボルドー、幾度もおかわりしてげっぷしている。いくら過ごしても飛行機はフランスにつかないので、友人がくれた、ピピロッティ・リストがつくった経血みたいな色のマスクにつけかえる。
フランスのシャルル・ド・ゴール空港についた。つぎの飛行機を待っているあいだ、エアフランスのラウンジのトイレに入ると、リキッドソープで便座を執拗に拭いている女性がいる。どうして、と思うけれど、いくらまっても、あいているところがそこ一室しかなく、仕方なく入ったのだけれど、クラランスのフローラルなにおいが便座からして、リキッドソープが、まんべんなくついているから、座るとぬるぬる滑る。
空港の通路で、はじめてのお買い物。エビアンの350ミリボトル、二つで、4・95ユーロ。1ユーロは153円くらい。

ヴェニスにむかう飛行機の一列目に、おおきな人間が座っている。大きい、と思って、じっとみたら、リック・オウエンスだった。しらないひとなので、もちろんあいさつはしないし極力みない。十年ほど前、パリにいたとき、ご飯を食べていたひとたちが招かれているというだけで流れでパートナーのミシェルさんの誕生日パーティにおじゃましたことがあった。背の高い、黒い服のひとたちが勢揃いしていて、まったく知らない人の誕生日会に行ってしまったことの気まずさと申し訳なさを思い出す。
ヴェニスまでの飛行機でも眠れない。もう長いこと起きているのだから『24時間テレビ』に出ていたら褒めてもらえるのに、と何度か思う。わたしが勝手に起きているだけにすぎないのだけれど、眠れないのが辛い。飛行機の窓から、白い山々をみる。飛行機が無音で、いつでも窓をあけてよかったら、たぶん好きになると思う。空調と風を切る音が苦手で、映画館で『レヴェナント』をみたときも、金属を裂いている強烈な音が怖くて、上映中、叫びだしたい気持ちになって走って映画館を出てしまった。
ヴェニスの空港についたのは夜十時ごろ。そこからタクシーで二十分ほどで、船着場についてすぐ、木彫のきれいな船に乗る。船にのって走り出したら、ようやくヴェニスにいるのだとわかった。
ゴンドラではなくモーター音のはげしい水上タクシーなので、波の上をどんどこ進む。おもったより激しい。細い運河の両脇に十六世紀ごろからかわらない石造の屋敷がつづいている。水をかぶるし、運転が荒い。太鼓橋を通るのも信じられないスピードで、うっかり立ち上がったら、橋にあたって、首の骨がもげそうだった。川縁は人が住んでいるのかわからない建物も多くて、景色は閉館後のディズニーシーみたい。ヴェニスは土地が高騰している。フランスのお金持ちが建物をかいあげるけれど住んでいない建物も多い、とそのとき聞いた。ヴェニスは失業率が高い。建て替えることもできないし、住むと苦労が多い気がする。水辺の下には、たくさんの木がささっていて、ヴェニスをさかさまにすると森になる、と言われていることが、水面をみているとうっすらとだけれどわかる。それにしても、高校時代に友達とよく学校をサボってディズニーシーに行っていたこともあってシーがヴェニスを模しているわけだけれど、ディズニーシーしかしらないからそれにみえる。
ヴェニスは八度。想像よりはるかに寒くて、腕を組みながら、それでも、やっぱり景色がみたいので外を見ている。むかっているのは、ジュデッカ島の、製粉工場をリノベーションしたホテル。ホテルの長い廊下には、パンの工場時代の写真が飾ってあった。ムラーノの作家物の花瓶も陳列棚にたくさん置いてあって、陳列棚の、もっさりしたかんじが、地方都市のホテルらしくてなごんだ。
部屋で荷ときをしているとき、クローゼットで服をハンガーにかけたり、靴をそろえたりしていたら、突然電気が消える。うっかり何か触ってしまったかもしれないと、もう一回つける。もう一回浴室で、歯を磨きながら、化粧品をならべていると、また電気が全て消える。『シャイニング』をふと思い出して怖いと思っていると、あつこさんから電話が来る。部屋に問題は無いかとたずねられる。やさしい。あのなぜか部屋の電気が消えるんです、と言ったら、それは大変だとすぐに電話をしてくれた。理由はすぐにわかり、十五分、人間が動いていないと人感センサーで、部屋の光が全て消える設定らしい。え、でもけっこう動き回っていたのに、と思う。部屋で原稿を書いてたら、十五分後には、また消灯してしまうということか。よくわからないけれど、わかりました、と伝えて、仕方なく、いつ電気が消えてもいいように、アイフォンをそばに置いて、入眠の支度をする。わたしが映画で知っているヴェニスの浜辺は、リドというところで、今回行くことはできないこともわかった。
Photo_Mariko Asabuki