スタイリスト、原由美子さんがエッセイ『スタイルを見つける』を刊行。日本のファッション雑誌を草創期から支えてきた人は、今どんなことを考えているのだろう。
原由美子さんとする「スタイル」の話
新著解題、雑誌や服への思いを尋ねる
「スタイリスト」を始めた人
「スタイリストの原です」。その挨拶とともに、原由美子さんは取材場所に現れた。〈ドリス ヴァン ノッテン〉の黒いレースシャツを羽織って、足元は白いスニーカー。70年代に『anan』での『ELLE』誌の翻訳に携わったのをきっかけに、ファッションページ撮影用の服を集めたり、コーディネートを組んだりするようになった。「スタイリング」という言葉もまだ存在しない時代から、服そして「スタイル」というものと向き合ってきた人だ。
2024年7月に刊行された『スタイルを見つける』(大和書房、¥1,760)は、エッセイとしては初めて「暮らし」全般に触れたもの。定番コーディネートの話から自宅のテーブルや日々の食事にまで通底するスタイルが、軽快なテンポで語られる。それを読むと、装いだけでなく生活の隅々にまで自分の心地よいかたち、納得のいくものを探る原さんの姿が見えてくる。
どうしてそこまで徹底できるのだろうかという質問に、淡々と答えてくれたのが印象的だった。
「仕事柄でしょうね。衣食住を自分らしく一つにまとめようと思い詰めていたところがあるのかもしれません」
原さんが育ったのは鎌倉の日本家屋。新著ではそこでの思い出や服飾評論家の父の記憶が原体験として随所に登場する。
「父はイギリスで暮らしたことがある人でしたが、絶対に洋間は作らず、寝るときは浴衣というスタイルでした。それでいて書く内容は紳士服やエチケットのこと。そういうところに、子どもなりにモヤモヤしていた。だから、自分が一人暮らしを始めるとき、なにかイメージを統一した暮らしに憧れがあったんです。といっても、自分も実家にいたときは和室にピンクのカーテンをつけたりしていて、振り返るとあれは今でも恥ずかしくなりますが(笑)。とにかく、私は一人の人間なのだから、衣食住においても一つにまとまっていたいなという、そういう思いは昔からある気がします」
ファッションも、あくまで衣食住の一部。雑誌がキャリアのスタートだったこともあり、パリコレに通うなかでも常に一般の読者目線で洋服を見てきた。
「コレクションでは想像以上に新しくて面白いものに出合えますが、日本人には着られないかもな、いやフランス人だってこれで表には出ないだろうという、そういう服も結構多かった。そこから、『anan』や『クロワッサン』に取り上げられそうなものを探していました。あまり突出していないものを選ぼう、と。エキセントリックな格好が好きで着こなしが上手な方は、雑誌を見なくても自分で楽しんでできますから」
パリコレに通うという「見る権利」
『スタイルを見つける』の中で、原さん自身のファッションについては「サングラス」や「スニーカー」といったアイテムを通して綴られている。読んでいくと、確かな軸を持ちながら、時代のムードや自身の中でのタイミングによって選択の幅を広げる楽しさが伝わってくる。
ただ、やっぱり「スタイルを見つける」ことは容易ではない気がする。どうすればいいのでしょうと水を向けると、返ってきたのは「たくさん見るしかない」というシンプルな答え。
「たとえば昔のマガジンハウスで、ある時期ポロシャツをおしゃれに着ている人が多くて。そのうち会社の人みんなポロシャツを上手に着るようになる。やっぱり、見て、慣れることで作られていくものがあるのだと思います。私に関しては、職業的に『見るっきゃない』と。それで、『anan』の媒体登録をしていただいたのでパリコレ取材に行き始めました。その後も、その期間は自分の休みということにして自費で行く決心をしました。ホテルを取って、航空券を買って。元を取ろうという気持ちも働くし真剣に見る。記事として仕事に繋がらなくても、私にとっては『見る権利』の方が大事でした」
その眼は、ランウェイだけでなく日常の様々なシーンに向けられている。原さんと話していると、常にアンテナを立てる好奇心と観察眼に驚かされる。たとえば、話題が服装の男女差に移ったとき、「私よく日比谷線に乗るんですけれど」と切り出された。
「コロナ前のことですが、霞ヶ関駅を通るとき、4月は女の人が黒のパンツスーツ姿ばかりなんですよ。それが6月や10月になるともう真っ黒な人なんて乗ってこない。やはり、就職して初めの頃はそれが必要だと思って黒い上下を着るけれど、だんだんそれを着続けなくてもいいのかなと彼女たちも思うのかなと。女性の方が仕事着のルールが曖昧で難しいと思っていたのですが、今はコロナ禍も経ましたし、さらに変化している感じです」
着る、手放す…服との関係
懐古するだけでなく、いつだってリアルな動きを追う。新著内「クローゼット」と題された章では、女優・高峰秀子との対談をきっかけに「服を着続けること」を考えながら、昨今の服飾業界の消費サイクルへの懸念も滲ませる。インタビュー時も、持ち物としての服との付き合い方を伺ってみた。
「私も断捨離の本などを読んで3回ほどやってみました。でも、やはり後悔したこともありますね」と苦笑いする。
「『あの服、着られたな』と。私の場合は、流行というよりも、着続けられるものを持とうとしていました。新しいものももちろん好きだけれど、似合うまでに時間がかかるというか。自信が持てないんですね。だから、服が自分に馴染むまでに時間がかかるし、着ているうちにじわじわと好きになることが多い。そういうふうに時間をおいた上で、やはり着ないとなったものは、人にあげたりしていました。
〈コム デ ギャルソン〉のごく初期の頃のジャケットなどは、悩みに悩んで、京都服飾文化研究財団(KCI)に寄贈。でも、今『着たいな』と思うんですよ。その時は歳を取ったら着ないだろうと決めつけていたのですが、現在のこのグレーの髪で着てみたい。〈イヴ サンローラン〉の日本1号店で求めたケープも、もろ流行のものだったので照れながら着て、結局KCIへ。けれど、あの時代には最先端で目立つ服に見えたのに、今振り返るとわりとベーシックだった。その頃は照れもあって気分よく着る余裕はありませんでしたが、今なら違うかもしれません。だから、貸していただけたらな、なんて(笑)。本当に、ときの流行りがのちにどう見えるようになるかは、わかりませんね」
「だから、やはり着物はすごい」と、和装スタイリングも手がける原さんならではの視点で話が広がる。
「同じ紋様や型がずっと受け継がれている。老若男女がほぼ同じかたちを着て、色と着方だけで変化がつく。平らにできるから収納もシンプル。最期は土に還る素材だけ。着物文化を残さなくてはいけないと強く思います」
良い仕事は猛烈に大変
年に2回のパリコレに行くのだけが長期休暇だったという原さん。「この仕事を続けるなら、そうするしかないと思っていました」と、そのワークスタイルも徹底している。
「フリーランスでやると決心したときに、60歳で終わらずに続けられるだけ働くのだろうなと感じました。父が物書きで、いわゆる休みを取らない人だったという影響もあるかもしれません。実家が鎌倉でしたので、小さい頃の夏休みも、親戚や友人が訪れる“海の家”になっていて、お休みというより、にぎやかな季節でしたし。
あとは、仕事を始めたばかりの頃に堀内さん(*堀内誠一。『anan』の初代アートディレクター)たちと行った海外ロケは驚きの連続でした。そこで、『素晴らしい経験というのは猛烈に大変なのだ』と理解しました(苦笑)。雑誌やファッションの世界の節目節目に立ち会うことができて幸運だったと思っています」
「なんであんなに雑誌をやりたかったんだろう」
70年代の原さんは、編集者とスタイリスト、そしてライターの三役をひとりでこなしていた。業界草創期ならではのその奮闘が、著書の中でたびたび振り返られる。
「最初の仕事は、『ELLE』の仏語の記事を訳して『anan』内で紹介すること。月2回刊だったので本当に大変でしたが、すごく張り切って取り組んでいました。だから、過ってはまってしまって(笑)。なんであんなに雑誌をやりたかったのか、今思うと不思議」
そう話した後、「でも」と続ける。
「仕事を始める前から、雑誌というものがいつも好きでした。実家で、高校生くらいの時、何も知らずに『週刊平凡』のファッションページをスクラップしていたんです。それが実は堀内さんがディレクションしていたページだったと後で知りました。今は急激にデジタルの時代になり、ファッションのあり方も違うものになってきていますが、私はやはり紙の雑誌の力というものを信じていた。ある時期からの『アメリカン ヴォーグ』もすごくて。アナ・ウインターと仕事をしていたグレース・コディントンの作るページが大好きでした。いいときだったんですね。だから、はまってしまいました」
取材後も、机に出していたGINZAのバックナンバーのページを次々とめくる。差し上げますと言うと、「これにします」と2024年の映画特集号を持って帰ってくれた。やはり、雑誌がとても好きな人なのだ。
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原由美子
はら・ゆみこ>>スタイリスト、ファッションディレクター。慶応義塾大学文学部仏文学科卒業後、1970年に『anan』創刊に参加。当時雑誌内に組み入れられていた仏『ELLE』誌のページの翻訳を担当。1972年よりスタイリストの仕事を始める。以後『婦人公論』『クロワッサン』『エル・ジャポン』『フィガロジャポン』など多くの媒体でファッションページを手がける。
Photo_Hikari Koki Text_Motoko KUROKI