「テレビを今みたいに駄目にしたのは、 そもそもテレビ局そのものだからさ。」
『やすらぎの郷』 第2話より
みなさんによく尋ねられるのが、菊村栄は倉本聰さんの投影ですか?ということなんです。名脚本家で、愛煙家で、近頃のテレビ業界に苦言を呈している。だからみなさん倉本さんを思い浮かべてしまう。でも、それは違うと。菊村は、倉本さんが見た作家なんです、たぶん。それが誰なのかはわかりません。倉本さん自身の反省から生まれたのかもしれません。たとえば、菊村は自分の想像でシナリオを書き、それがドラマとなったものを観て、「オレが書いたのと違う。ホントはこうなのに」というような思いを抱えてきたんだと思います。でも、よくよく考えれば、それは自分が勝手に思い込んでいただけなんだと。そういうことを、ドラマを作っていたみんなと実際に生活することによって、だんだんと学んでいく。作家というのは孤立しているので、俳優さんたちとはもともとそんなに深い付き合いはないんです。あのメンバーの中でも、野際陽子さんが演じていた井深凉子だけがいちばん親しかったはずなんです。凉子も女優だったけど、「やすらぎの郷」に来てから文才を発揮し小説家になった。感覚的には近いものを感じてたんじゃないかな。
僕自身も、役者同士でつるむということを、いままでずっとやってきてないんです。どちらかというと、商売が違う友だちが多い。役者って集まると、愚痴をこぼすか、空想のような演技論を戦わせたりするじゃないですか(笑)。そんなの無駄じゃないかって思ってたんです、劇団にいた若い頃から。もともと芝居がやりたかったんで、大学も文学部へ行けと言われたんですけど、いや、文学部で芝居を勉強するより法律をやったほうがいいと。それで、法学部法律学科へ行きました。芝居の世界では、他のことをいろいろ知るほうが役に立つんです。役者の話はあんまり役に立たないんですよ(笑)。
僕は、一つのことを突き詰めてトコトンというより、店が広いタイプなのでね(笑)。天文学、博物学、歴史、料理、絵画……。おかげさまで、知識が豊富ですねと言われることが多いんですが、僕は、役を演じるためにというより、知識を得ることが好きだったんです。昔は「一つの道を極めるべき」というのが役者の世界にはあって、僕が出た頃はよく非難されました。「いろんなことをやりやがって。そのうち滅びるぞ」って(笑)。
ですから、今後も固まったりはしないでしょうね。固まるというのはあきらめが絶対に必要だと思うし、諦観みたいなものを持つのは覚悟がいることだと思うし。いくつになっても、たぶん死ぬまで揺れ続けるんじゃないですか。 そういったジタバタがあるからドラマにもなるんだと思います。観ていてくださっている方に言われてなるほどと思ったんですが、お互いの過去を知ってるような男3人があの年になってもずっと一緒にいられるというのは素晴らしいことじゃないかって。だから、あの3人でいるときがいちばんの「やすらぎの郷」で、あとはもう「あたふたの郷」ですから(笑)。