学生時代にフィールドワークのためアフリカはタンザニアへ渡り、古着の商人をしていたという小川さやかさん。その調査をもとに上梓した『都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌―』は、サントリー学芸賞を受賞。その後も、アフリカや中国など、日本とはまったく異なる価値観を持つコミュニティの研究を続けている。異文化での暮らしや生き方には、わたしたちの生活に役立つ発想があるという。そんな、小川さんにお話を伺った。
現代社会がもっと生きやすくなる、オルタナティブな感覚とは。文化人類学者・小川さやかインタビュー

── まずお伺いしたいのは、「文化人類学」とはどんな学問ですか?
たとえば、家族の問題を考えるときに「なぜ暴力的な事件が起こるのか?」など、いま自身が抱えている課題そのものを研究することもできます。でも、アフリカには一夫多妻制度や日本とはまったく異なる家族の形があって、そういう事実を知ることでわたしたちが〝これ以外にはない〟と思い込んでいる考え方が相対化され、少し違った見方ができる。複数の妻がいる場合や、大家族の場合にはどういう愛情が成り立つのか、子育てはどうするのか。もちろんアフリカのシステムをそのまま導入するのではなくて、そうやってオルタナティブな価値観を探してくるのが得意な学問なんです。
── 研究を始めたきっかけは?
母が心臓病を患っていたこともあって「贈与」や「負い目」が人間関係の中心的なテーマだといつも思っていました。なにかできないことがあったときに「申し訳ありません」と、できる人に常に遠慮するのって〝負い目〟じゃないですか。その負債を返せればいいけど、みんなと同じ能力を持っているわけじゃないから、手伝ってもらうばかりでお返しができないこともある。そうやって精神的劣位に置かれるのって病や障害を持つ人たちだけではなく、普遍的にあることだなと思っていて。そういう互酬性の難しさについて漠然とよく考えていて、たまたま大学で文化人類学の贈与論を読んだときに、これはめちゃくちゃおもしろいじゃないかと思ったんです。
── そういった負い目を感じるのは、悪気のない〝マウンティング〟をされているような感覚ですか?
そうですね。人は、恵まれない人に善意で支援をしたり、親切にしたりするけど、それをなんとなく不本意に感じてしまうときがあります。その根源のひとつには「贈与」が関係しているんです。たとえば、友だちに1000円の誕生日プレゼントをもらったら、相手の誕生日に同等のものを返す。そこで、1万円のものを返すとちょっと感じが悪くなる。でも、1000円のプレゼントをもらって1000円のものを返すんだったら、自分で好きなものを1000円で買えばいいじゃないですか。そうしないのは、同じ程度の贈与交換をすることで「我々は対等である」ということを確認し合っているんだと思うんです。
夫婦間でも「わたしは家事も仕事も子育てもしているのに、あなたは仕事しかしてない」とか、「わたしは洗濯機に洗濯物を入れて干したから、あなたが畳んでしまうべき」とか、均衡が崩れると難しいですよね。本来、困ったときにお互いに助け合うのが人間関係や社会の基本なのに、ちょっとでも負債や負い目のバランスが崩れるとうまくいかなくなる。すると「あのときわたしはやってあげたのに、あの人はやってくれなかったから、もうやらない」とか、はじめは好循環だったはずの相互性が、贈与の失敗によって急に悪循環にスライドしていく。気が付けば「わたしの方が損してるんじゃないか」とか「アイツの方が得してるんじゃないか」とかばっかりが気にかかってくる。それが人間関係のわずらわしさのひとつにあると思うし、その発想が強いと社会全体でも「わたしの税金を使って得してるやつがいるにちがいない」という考え方が蔓延していきます。
── 大学ではどのような研究をしていましたか?
学部生の頃は、お寺の副業であるカルチャーセンターや幼稚園経営などの営利活動のなかに、贈与がどう組み込まれているかを研究していました。お寺の本業って「贈与経済」なんです。でも、とにかく遠くの国に行きたくて、別の研究テーマを探すことに。指導教員が厳しかったので、なかなかこのテーマでやっていいという許可がおりず、なんとかひねり出したのが「小規模製造業の徒弟制度による教育や技術移転」でした。その内容で申請書を書いてタンザニアに行き、大工として働きました。でも、基本的に現場は男の世界。「そこのセメント持って」って言われても、「いやいや、50kgって書いてあるから絶対無理だ…」みたいな(笑)。みんな相手にはしてくれるけど、あまり役に立てないし、ずっといるのは厳しいなと思い始めていた頃から、行商の仕事に興味が出てきて。ある日、バスのコンダクターにナンパされたとき「あなたじゃなくて、わたし行商人がすごく気になるの」と言って断ったら、たまたま通りかかった古着商人のロバートに「おい、このお姉ちゃん、お前のことが好きらしいぞ」ってそのナンパ師が声をかけてくれたんです(笑)。その出会いをきっかけに、指導教員には内緒で研究テーマを変えて、古着の行商を始めました。
── タンザニアではどんなファッションが人気ですか?
彼らって、アフリカンプリントのように、はっきりとした原色で派手な大柄が好きなんです。古着はABCのグレードに分けるんですけど、生成りのワンピースは必ずCにいってしまいます。ベージュやグレーみたいなくすんだ色が嫌いなんですよ。それは好みじゃなくて、タンザニアの地方では水が完璧な透明ではなくちょっと泥が混じっているので、白いシャツを洗っているとだんだん生成りっぽい色になっていくんです。だから「なんでせっかく新しく服を買うのに、泥水で汚れたような服を買わないといけないんだ」って(笑)。
── 古着はどのくらいの割合を占めていますか?
わたしが調査に入った2000年代前半と、現在では様変わりしています。当時は中国製の安価な商品や模造品は少なくて、基本的にはみんな古着を着ていたんです。それがいまや中国製品が溢れかえっていて、古着と市場を争っています。
── 中国製が入ってきたことで、古着市場はどのように変わりましたか?
革命が起こりました。古着1枚あたりの単価は、そのなかにどれだけ彼らの好むものが入っているかによって大きく変動するんです。2000年代のはじめ、まず見るのはデザイン性でした。ブランド名はあまり気にしてなかったんですよね。だけど中国製品が入ってきて、コピー商品がアフリカで話題になってみんな気付いたんです。自分たちが着ていた古着はこんなに丈夫で、中国製は粗悪なんだって。見た目はそっくりなんですけど、本物って違うんだと気が付いて、ブランド品の価値が上がったんです。でも、今の中国製は品質が向上しています。
──古着の行商を通じた研究から、どのようなことを学びましたか?
アフリカの人たちと暮らして、〝積み重ね型人間関係〟からだいぶ解放されました。たとえば、彼らって「こないだ悪いことをされたから、アイツは悪いやつだ」って考えにはあまりならないんですよね。「悪いことをされた。アイツはきっといまヤバイ状況なんだろう」と考えます。ちょっと時期が変わると「最近アイツはまたがんばってるし、また信頼できる」となる。総合的に、その人が良いか悪いかという判断をあまりしないんです。日本では、有名大学出身であるとか、大企業で働いているとか、その人の属性から推し量る社会的な共通認識があります。でも、アフリカの人たちって、他者は他者だと思って生きているから、たとえば民族や宗教が異なる人々の間では価値観を共有できないこともある。誰を信頼したらいいかなんてわかんないんです。どんな人だって失敗することはあるし、お金持ちだって貧乏人だって、人生には晴れの日も雨の日もあるって考えるんですよ。だから、その人が積み重ねてきた経歴を見て〝こういう人なんだろう〟と考えなくなりました。
── 日本では芸能人や政治家が一度悪事をはかると執拗に責められ、積み重ねてきたものが崩壊して再起しにくい出来事が頻発しますよね。
日本では一度失敗すると、なかなかその評価を塗り替えられないんですよね。アフリカにいる時には、失言ひとつで評価が変わるのは不寛容だと理解されがちでした。人を追い詰めないような社会になっているんです。でも、そういう話をすると、その考え方は不安だという学生たちがいっぱいいます。それは、失敗をしたり、ネガティブな場合には何度もやり直せる評価のあり方はいいけど、すごく一生懸命やってきたこともリセットされるのは嫌だって。
── 「過程を重視してほしい」ということですね。努力点か、結果点か。
日本は「努力主義」ですからね。苦労して不幸な目にあって成功すると評価されやすいけど、ポッと出に見える成功者は理解されにくい。それはとっても不幸だと思うんですよね。欧米諸国では天賦の才のことを〝gifted〟といい、飛び級のシステムや特別コースがあって、必ずしも「努力すればみんなが同じ結果に至る」という前提がないんです。そのかわり、神から与えられた才能によって成功したのなら、それを分配しないのはおかしいと思われる。日本は、スタートがみんな一緒だと思っているんです。だから「自分の努力によって得た利益は自分のものだ、分配する必要はない」と考える傾向にあるように思います。
── 「分配」とは、どのようなことでしょうか?
わたしたちは〝分配〟と〝再分配〟によって得た利益を社会に還元していますが、その2つはまったく意味が異なります。わたしが調査しているタンザニアの商人たちは「分配」の原理で動いています。たとえば、狩猟採集民社会では、今日狩りに成功した人が今日みんなにお肉を分けてあげる。明日成功した人は、明日みんなに分ける。でも、いつ誰が成功するかはそのときどきだから、人に助けられる日もあるし、自分が助けられるときになったら他人を助けてあげる日もある、という世界が「分配」です。つまり〝シェアリング〟ですね。それを国やリーダーが統制してやろうとすると「再分配」になるんです。傾斜配分で国が税金を徴収して、必要な人に必要な分を返す。自分自身がだれかを助けた感覚がなく、自分のお金が不当に分配された感覚が残ることがあります。もらった人も、くれた人に返す回路がない。直接自分で返せないから「義務」や「権利」の話になってしまう。でも「分配」だと義務や権利の話はもっと曖昧なものになります。
── Uberやメルカリなどのサービスは、自分の余剰分をシェアするシステムですよね。日本でも、シェアリングの感覚は広まってきているのではないでしょうか?
そのシェアリングエコノミーって「市民社会」の論理なんですよ。無駄を減らして過剰消費や、環境破壊につながるような大量生産、大量廃棄の文化から抜け出し、不要なものや時間を必要とする人とシェアすることで、より効率的に経済をまわしていこうっていう話なんですね。無駄なものを有効に活用したいという欲求の方が強い。タンザニアの人たちは無駄だからシェアしてるわけじゃないんです。それに、そのためにはコミュニティに入れることが前提で。評価システムを利用して、同じ価値観や目的を共有していますよ、等価交換できる資産を持っていますよ、正しく信用を履行できますよ、という人たちを集める。そうじゃない人たちをシステムから排除することで成り立っている経済だと思うんですよね。たとえば、「職業:フリーター、貯金:0円、住所:不定、趣味:放浪」って登録フォームに書いたら、絶対に排除される(笑)。
── 助け合いの精神というよりも、見返りを求めているということですか?
「シェア」という名前がついているけど、本当は「交換エコノミー」なんですよね。中国で活用の幅が広がっている「信用スコア」って知ってますか? どこに住んでいるか、どんな人と付き合いがあるか、また買い物履歴から嗜好やパターンを解析され、その人の履行能力によって個人の点数が付くんですね。さらに、自分の信用スコアを検索すると、関連するほかの人のスコアも出てくるんですよ。だから、誰が自分の足を引っ張っているかわかるし、ネットワークのなかで自分ひとり信用スコアが少ないと、見捨てられたりする。それこそまさに「積み重ね型人間関係」なんですよね。一度失敗したら終わりだから、努力してよいものを積み重ねていかなくてはいけないという世界観で。インターネットの可能性として広がっているシェアリングエコノミーとか、ブロックチェーンによるさまざまな便宜がどんどん広がったらいいなとは思うんですけど、評価システムが絶対にくっついてくるんですよね。「評価」というのが日常になり過ぎていて、数値で相手や物を選ぶシステムが、人間そのものに対する評価に置き換わっていく現象が進んでいて。
── そこで、現代社会ではオルタナティブな感覚を持っていることが大切になってくるのですね。
自分と違う価値観って考えるのは面倒くさいと思うんですが、それがあるからこそ自分の考え方を相対化できることはすごくよくて。〝世の中にはこんなにいろんな意見があって楽しい〟と思えるといいんですけど。価値の市場を一元化しないようなシステムになっていったらいいなって常に思いますね。できるだけ多様な価値観があることの気楽さ、いい加減さ、創造性などのメリットを受け入れられれば、これからの社会でもっと生きやすくなると思うんです。
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小川さやか
1978年生まれ。立命館大学先端総合学術研究科・教授。専門は、文化人類学、アフリカ研究。著書に『都市を生きぬくための狡知―タンザニアの零細商人マチンガの民族誌―』(世界思想社)、『「その日暮らし」の人類学』(光文社)、『チョンキンマンションのボスは知っている:アングラ経済の人類学』(春秋社)など。
Photo: Koichi Tanoue Text&Edit: Satomi Yamada