そんな彼女が「男の人が殴り合う別世界の出来事」に過ぎなかったプロレスにハマったのは、中学校3年生の頃。家族と一緒にアメリカのプロレス団体「WWE」で活躍し“プロレス版メジャーリーガー”とも言われる、TAJIRI選手の凱旋試合を観戦したのがきっかけ。
「技のすごさや会場の熱気、スリーカウントを取られそうになってもギリギリで返す巧みな試合運びにたちまち引き込まれました。プロレスに出会って、無趣味で味気なかった日々が一転したんです」。

「応援したい」が「なりたい」に変わるのに、それほど時間はかからなかった。プロレスラーへの夢を一番最初に打ち明けた相手は、父・清志氏。
「“人前に出るのが苦手なお前がプロレスラーを目指すなんて”、と意外に思ったみたいです。子供の頃は人見知りで、家族としか喋れないぐらいだったし、友達も少ない方だったから。高二の時に空港で迷ったけれど誰にも道を聞けなくて、一人で泣きながら1時間半彷徨ったこともあったほどなので……」。
高校卒業後は、飲食の仕事を通して極端な人見知りを克服。
「もともとは調理希望で就職したのに、なぜか接客に配属されてしまって。お客さんに“何言ってるか聞こえないよ!”と鍛えられ、いつの間にか普通に喋れるようになりました。うちには、働けるようになったら年下の兄弟の学費の面倒を見る伝統があって。私の学費を助けてくれたお兄ちゃんからも、“お礼は妹に返して”と言われていたんです。三つ子の高校受験のお金を払い終えた時、よし今ならいける!とプロレスの道に進みました」。

中高と柔道部で鍛えた体に、入門前には引越しのバイトでスタミナもつけた。しかし、デビューに向けた追い込みの日々は、甘くはなかったという。
「どの選手も普通にロープに向かって走って、軽々と当たっているように見えるじゃないですか。自分でやってみてわかったんですけど、あれめちゃくちゃ痛いんですよ。ロープに当たる腰の後ろのあざが消えなくて……。スパーリング、受け身、ロープワーク、ランニング……1日5時間半みっちりと練習していた時期はきつかったですね。寮に帰ったら、やらなきゃいけないことだけサッサと済ませて、とにかくご飯を食べて寝るという生活でした」。
プロレスの選手には、いわゆる悪役にあたる「ヒール」と、善玉の「ベビーフェイス」という役割分担がある。もともとは「ヒール」贔屓ながら、プロレスラーとして選んだのは「ベビーフェイス」の道。
「自分は根っからのいい子なんです。嘘をつくなと育てられたので正直だし、悪いこともせず、困っている人を見過ごせないタイプ。どんなに憧れていても、ヒールのセンスがないことはわかっていたので」。