上京して6年目、高層ビルも満員電車もいつしか当たり前になった。日々変わりゆく東京の街で感じたことを書き綴るエッセイ。前回はこちら。
シティガール未満 vol.5──西武新宿線沼袋駅

西武新宿線沼袋駅。急行は止まらず、沼袋を知る人は「何もない」と形容することもしばしば。だがそれは違う。お前が何も見つけられていないだけだ。
これは、『沼袋ウエストゲートパーク』の書き出しである。
『沼袋ウエストゲートパーク』というのは、私があるメディアで沼袋について書くことになった際に考えていた記事のタイトルだ。沼袋駅周辺のおもしろスポットを紹介していくという内容で、『池袋ウエストゲートパーク』とは一切関係ない。
3年ほど前から温めていただけあり、自分では面白いと思っていたのだが、企画案を出してみたところあっさり却下されてしまった。
代案も思い付かず、その数日後、私はネタ探しのため沼袋に向かった。
私と沼袋の関係は、大学時代近くに住んでいた、という中途半端な関係だ。沼袋駅を使う機会はあまりなかったものの、当時近所の散歩が趣味だった私は、時々沼袋駅周辺まで足を伸ばしていた。
沼袋には何があるのかと聞かれると、一言で答えるのは難しい。ただ沼袋の散策は、リサイクルショップで掘り出し物を探す楽しさに似ていたかもしれない、と西武新宿線から中野区の町並みを眺めながら思った。
約2年ぶりの沼袋駅を出ると、突然の雨。朝は雨の予報がなかったので、傘を持ってきていない。自宅のコンビニのビニール傘コレクションが頭をよぎったあと、思い出した。ここは沼袋なのだ。「沼袋アンブレラハウス」があるじゃないか。
駅に戻り、傘立てに並ぶ色とりどりの傘を物色する。「沼袋アンブレラハウス」とは、沼袋駅構内に設置されている無料貸出し傘立てのことで、傘は様々な企業や団体から寄付されたものらしい。何の手続きも期限もなく、誰でも借りることができる便利なサービスだ。
どうせなら可愛い傘がいい。青い薔薇の柄がプリントされた高級そうな傘を手に取る。開いてみると表側に金色のペンで大きく“沼袋アンブレラハウス”と書かれている。
普段は味気ないビニール傘だから、色や柄の付いた傘を差せるのが少し嬉しい。しばらく駅周辺を歩いていると、雨がどんどん強くなってきたので、近くの喫茶店に入ることにした。
駅前の商店街を抜けて青梅街道沿いに出たところに、「純喫茶ザオー」はある。
オレンジ色の大きな庇(ひさし)は目立っているのに、少し駅から離れているせいで今まで見つけられなかった。良い喫茶店との出会いというものは、散歩中に見つけて直感で入るのが理想ではあるが、最近は素直にネットで探すことにしている。やはり運命の出会いはそうそう転がっていないのだ。
半開きの木製のドアを押し開けると、声の高いおばあちゃんの店主が迎えてくれる。カウンター席とテーブル席があり、天井からぶら下がる青リンゴのような丸い緑色のランプシェードと、唐辛子のような形をした真っ赤なランプシェードが可愛い。
と、ここまではごく普通の昔ながらの純喫茶といった感じだが、奥に進んだ私は目を疑った。
家があったのだ。
それは入って左奥の、座敷のようなスペースだった。4畳ほどの畳の上に色褪せたソファとちゃぶ台、座布団、ストーブが置かれ、壁には時計、カレンダー、80年代くらいの広告ポスター、額縁に入った絵画、姿見、エアコンのリモコンなどが掛っている。さらに壁を隔てた座敷の向こうには、風呂場らしきすりガラスのドアまで見える。
ひとまず座敷の隣のテーブルの軋む椅子に座り、330円のアイスコーヒーを注文した。
これは店の座敷なのか、閉店中に家として使われている部分なのか、その両方なのか。まるでおばあちゃんの家に遊びに来たみたいな気分になる。
調べてみると、昭和40年頃から営業しているらしい。どうりで、この店で新しいものと言ったらストーブの上に置かれた「令和幕開け」という見出しの新聞とラジオから流れるあいみょんだけだというくらい、全体的にかなり年季が入っている。当時のまま整備され過ぎていないところに、無理に若作りをせず、歳をとることを受け入れて自然体で生きている人を見ているような安心感を覚えた。
アイスコーヒーが運ばれてきたタイミングで、スマホをバッグにしまって本を取り出す。
静かな喫茶店で小説を読むのが、最近の私のストレス発散法だ。普段は仕事でもプライベートでもパソコンやスマホの画面を見ている時間が長いので、レトロな純喫茶が逆に新鮮なように、紙の本が新鮮に感じられる。さらにフィクションを読むことで、現実から少し離れることができる。
だからこの時間だけは、全てを忘れる。締切の近い原稿、SNSのいいね数、将来の不安、上手くいっていない恋愛、高すぎる税金。日々私を縛っているもの全てを忘れて、本の中の物語だけを見つめるのだ。
「いやあ、またこんな天気になっちゃったね」
常連らしき老人が店に入るなり、店主に言う。
「晴れてたのにねえ。上の方でゴロゴロゴロゴロ言い出して」
「もうじき止むよ」
読書をするのもいいが、他人同士の何気ない日常会話も好きで、つい聞いてしまう。小説と同様に、誰かの日常の話も、私にとっては非日常だ。
私が今まで収集してきた会話の統計によると、老人の雑談は、「昔と今の比較」が実に多い。
「俺んちの周り、古い家がいっぱいあったけどみんないなくなっちゃった。税金が大変だから。修理も高いし」
「そういえば、セブンの前にあった床屋も閉まっちゃって」
「ああ、その近くにあった床屋も無くなったね」
「昔からの床屋はみんなやっていけなくなって辞めちゃったのよ。若い人は床屋なんか行かないから」
窓の外からは、雨がアスファルトを叩くサーッという音と、時々走行車がザーッと雨粒を潰しては去っていく音が聞こえる。ラジオからは今日2回目のあいみょん『マリーゴールド』が流れ、アイスコーヒーの中で溶けていく氷がグラスにぶつかって、カラン、と鳴る。
私はこの喫茶店のことを今まで知らなかったのを後悔した。
沼袋のことを知った気になっていたが、まだまだ知らなかった。『沼袋ウエストゲートパーク』は「ハマったら抜け出せない沼のような町、沼袋」で締めようと思っていたが、よく知りもせずに何か上手いことを言いたかっただけの自分を反省した。企画が通らなかったのも、それが滲み出ていたからかもしれない。
「ちょっと伺いたいことがあるんだけど」
しばらく静かだった男性が急に丁寧な前置きをして店主に話しかけたので、思わず聞き耳を立てる。
「何」
「お風呂ってどうしてんの」
「家にお風呂付いてるわよ」
「ああ、あるの?ごめん、ないかと思った。今銭湯ってないから困っててさ」
「何言ってるのよ、駅前に“一の湯”ってあるじゃない」
「本当に!?」
「あるわよ」
「ああそう」
その話はそれ以上広がらず、彼は今までお風呂はどうしていたのだろう、という疑問を私の中に残して彼は帰っていった。
いつのまにか閉店時間も迫り、店を出て駅に着いても雨が止む気配は無かった。
「沼袋アンブレラハウス」の傘は、原則返却しなければならない。少し迷ったあと、傘を持ったまま電車に乗った。また今度返しに来ればいいだろう。
なんか、好きな人にまた会うための口実みたいだな、と思った。
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絶対に終電を逃さない女
1995年生まれ、都内一人暮らし。ひょんなことから新卒でフリーライターになってしまう。Webを中心にコラム、エッセイ、取材記事などを書いている。
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