誰もがすぐにその姿を思い浮かべられる、東京を象徴する塔。この都市の変化を見守るあのタワーを、建築の視点でひも解きます。
都市の変化を見守る「東京タワー」
東京ケンチク物語 vol.61
東京タワー
TOKYO TOWER
東京のシンボルを挙げるとき、「東京タワー」は必ず思いつくもののひとつではないだろうか?足下に都市の景色を従えて、空に向かって堂々とそびえる高さ333mのタワー。1958年の完成以来、65年を越えて東京の変化を見守り続ける建築だ。そもそもの用途は、関東圏のテレビ・ラジオ局の電波をまとめて発信する“総合電波塔”。それまでは、各局が自局専用の電波塔を持ってそこから放送を行っていたが、局が増える度に同じようなタワーが都内に作られるのでは街の景観的に問題があるし、より安定的な電波を広く届ける必要もある……。そんな背景から建築計画がスタートしたという。設計者として白羽の矢が立ったのは建築構造学者の内藤多仲。1886年生まれの内藤は、名古屋や札幌のテレビ塔や二代目通天閣など、日本各地で数多くのタワーの設計を手がけた、“塔博士”とも称される人物だ。当時、世界でもっとも高い電波塔だったパリのエッフェル塔(320m)より高く、かつ台風や地震など、日本ならではの自然災害にも耐えるタワーをとの依頼に応えられるのは、内藤をおいて他にいなかったそう。齢70を越えた内藤は、コンピュータなどないなか、夜を徹して緻密な構造計算を重ねていく。戦後から間もない当時は、塔の材料となる鉄を大量にそろえることが困難でもあったから、鉄骨はぎりぎりまで細く。これを三角形(トラス)に組むことで安定性を高めた躯体を構想して図面にする。3カ月の間に、1万枚以上をも描いたという。
こうして託された施工図をもとに着工したのは1957年6月。タワーの開業は翌年12月だから、工期はわずか1年半!技術が格段に進み、機械が普及した現在に照らし合わせても、これは驚異的な短さだ。それを、全国から集まった腕利きの鳶や各種の職人たちが、当時の最先端重機を導入しつつ、多くは手作業で完成に漕ぎつけたかと思うと唖然としてしまう。一切無駄のない構造体の毅然とした美しさと、それをミリ単位まで正確に実現した手作業の粋。東京の明るく華やかな未来を夢見た人々の強い思いが「東京タワー」には宿る。次に街のどこかからこのタワーを見るとき、そのことを少しだけ、思い出してほしい。
Illustration_Hattaro Shinano Text_Sawako Akune Edit_Kazumi Yamamoto