南アジアにルーツを持つ、シャラ ラジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
前回記事▶︎「vol.18 ドラマ『アドレセンス』は“音楽”だった」はこちら
シャラ ラジマ「オフレコの物語」vol.19

南アジアにルーツを持つ、シャラ ラジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
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Netflixのドラマ『アドレセンス』を観て自分が書いた前回のコラムの内容に、あとから考えさせられている。
この物語の中に出てくる若者の感覚は、特にSNSから受ける影響に関する点で、ある世代から見るとリアリティが感じられないかもしれない。でも私にとってはすごく身近な感覚で、自分が10代の頃、家族よりも手前にSNSやインターネットが入り込んで、それが個人と個人を繋ぐ最初の波の中にいた覚えがある。その影響は大きくて、デジタルネイティブになることで自分の身体感覚がインターネットに広がっていき、自分の価値観が、いつの間にか、自分では認知できないほどに歪んでいく現象を体験した。なんていうか、言葉にしてみるなら、全てははじめから決まっていて、世の中はこういうもので、それはほとんど変わることがない、というように思考が固まっていく感覚が今振り返るとあったように思う。自然と漂う全体的なあきらめ。もっとすごいものや人がいることをやる前に知っていて、やる前から諦めたり、やっても満足できず、そもそもやり切れもせず、それら全てをあきらめて、悟ったような顔で自分の上限を決めて生きる感じ。
私は移民で、毎日こどもが寝てから帰宅するほど忙しく働いていた親を持っている、いわゆるひとりっ子の鍵っ子だったので、家族の時間ももちろんなければ、自分自身の時間と自信がSNSなどのツールに吸い取られていた典型例だ。
虚な日々を過ごす労働者の子であった私は、例の如く手の中の箱に夢中になって時間が溶けた思春期を過ごしたと思う。移民の子供はどうしても心と身体が別々の国におかれてしまう状況になりやすい。その影響に加え、わたし個人の問題もあった。大切な階段を一歩一歩登って、生活の様式や習慣を構築し、学びを経験する時期に、なんの秩序もない、全てをとっぱらったような人生を送っていた。バイトができる年齢になってからは、気がつけば週7で働いて、そのお金はバイト中のランチ代や疲れすぎて無駄に乗るタクシー代となり、気がつけば一円も手元に残らず消えていく泡のようなものだった。働くことに時間を割きつづけるほどに、自分を構築する時間は無くなっていった。そして、いつのまにか自信がなくなっていた。なんていうか、何をしても、自分には何かできる気がしなかった。すべてが途方もない。時間のなさ自体が自信を奪うのかも。
洋服を買う理由は安いからであって、ほんとうに欲しいものを手に入れられることもなければ、その方法を想像することもできなかったし、本当に欲しいと思うものに出合うこともなかった。まさにトンチンカンな価値観が作り上げた生活そのもの。周りには世界がどういうものかを教えてくれるような大人もいなければ、お金の使い方も知らなかった。家族に必要なことを教えてもらえる余裕がないと、トンチンカンな生活をしてしまったり、大事なことを飛ばした考えをしてしまう。そんな構造に、自分もすごく覚えがある。そしてまわりの友達も、私と同じような構造の中で生活しているのを、よく知っていた。社会は常に自分がどう思うかよりも先にあって、そこに向けて自分を調整していくのが基本的な構造だと思っていた。その中で自分がどう思うかを先に考える余裕なんて、基本的に与えられていなくて、自分の気持ちを感じて、本当の意味で自分の力で物事を決められるのは一部の豊かな人だけじゃないかと思うことがある。だけども、そんな社会の中であっても、自分のことがわからないままでも、ジタバタ生きて、ランダムな行動をしていると、偶発的に自分の感情と出合うことがある。私には破壊的に強い好奇心があったおかげではじめてそれらに出合ったとき、逃さなかった。偶発的に見つけたものが自分の感情を教えてくれることを知ってからは、それを一つたりとも逃さないよう、次の感情に出合うまで大切に持っておくことで、私は自分が心地よく感じる所に辿り着き、世界と神様に少しの考える余裕を与えてもらっていったように思う。
私が生まれた時点で与えられた環境と社会的構造の中で順当にいくと、ここで文章を書かせてもらえるような機会もなかったのかもしれないと思う。生まれ持った、楽しいことは絶対に逃さないという野生の才能があったおかげだけじゃなく、それを生きていく偶然の中で発見することができて、その宿命を燃やすことができて、やっと今がある。
人より遅れてしまうかもしれないけれど、奪われた時間と自信は取り戻せると私は信じている。好きなもの、音楽、映画、小説、漫画、本当にたくさんの物語に、そしてそれらを教えてくれた友人に、出会った人々と過ごした経験に、「大切なもの」を教えて貰うことで、救われてきた。
Text_Sharar Lazima