人生、タイミングは色々。その時々で見返したくなる映画って、やっぱりある。出会いと別れの季節を過ぎ、不安と期待と共に徐々に馴染んできた新生活。少しづつ夏の気配を感じ始める今の時期に、優しく寄り添う映画コラム。
変わっていく日常への優しいまなざし。映画、ミア・ハンセン=ラブ「あの夏の子供たち」

横顔に宿る希望
この街に暮らし始めて、今年で6年になる。
6年もの間、この街を出て行く人たちを見送る機会が幾度となくあった。ある人は自分の店を持つために、ある人は恋人と共に違う街で暮らすために、またある人は新たな場所で働くために。彼らの後ろ姿を眺めながら、わたしもまたこの街を出て行くことを思い続けてはいたものの、決断できずに数年が過ぎた。いまある確かな生活を手放すことが怖くて、新たな場所へ出て行くことをずっと踏みとどまり続けていたからだ。だけど、今年、意を決してこの街を出て行くことを決めた。6年ぶりの新生活がはじまる。そうは言ってもいまだ不安がぬぐえないわたしは、ミア・ハンセン=ラブの「あの夏の子供たち」を見返してみる。
父・グレゴアールの自死という出来事を境に、残された母・シルヴィアと長女・クレマンス、次女・ヴァランティーヌ、三女・ビリーの日常は一変してしまう。
シルヴィアは映画プロデューサーだったグレゴアールの会社の存続と未完成の映画の完成のため、とにかく動き回る日々を送る。それは、彼の意志を受け継がなければという使命感に突き動かされているからであると同時に、立ち止まってしまったら深い悲しみに飲まれてしまいそうだから、とにかく動き回るしかないという風にも見える。母親であるがゆえに、タフでなければならないという暗示を自分にかけるように。
どれだけ強い心を持ち合わせていたとしても、愛する人の死を目の前にしたら誰しも打ちひしがれてしまう。タフなように見える彼女が人知れず涙を流すシーンに、人はそう強くはないのよというミア・ハンセン=ラブの優しいまなざしが感じられる。
一方で、シルヴィアとは対照的に、クレマンスは父の不在を受け入れられず、立ち止まったままだ。
ある日、偶然にも父に息子がいたことを聞きつけてしまった彼女は、父の書斎を探ると、イザベルという女性から父宛に送られた手紙を見つける。手紙には、かつてその女性との間に生まれた息子のことが書かれていた。ただでさえ辛い状況の中に立ち現れた、生前知りえなかった父の秘密に混乱するが、彼女はその女性に会いに行くことを思い立つ。
思えば、誰よりも父の面影を探していた彼女が父の秘密を知ることは、偶然のようでいて、父の痕跡をたどるよう仕向けられた必然だったのかもしれない。父の痕跡をたどりながら父の不在と向き合う彼女は、少しずつ前を向きはじめる。
シルヴィアは映画のために奔走するも、返す目処の立たない借金と、制作への融資者が見つからないことを理由に、会社を清算することを余儀なくされる。
家族と食卓を囲む最中、彼女は「わからないの、この街で暮らし続けたいのか」とパリの街を出て行くことを考えはじめるが、子供たちは父の近くにいたいとパリに留まることを望む。
パリの街を出て行くということは、グレゴアールの面影を手放すことだ。だけど、その面影が残る街に留まることは、面影の中に彼の不在を見ながら生きていかなければいけないということでもある。だからこそ、彼女はパリを出て行くことを望んでいるのかもしれない。きっと新たな場所の方が、心に生き続ける彼の魂をちゃんと見つめて生きていけるという希望を感じて。
そんな時、突然の停電に見舞われる。ロウソクのあかりだけが灯る暗闇。落ち着くことのなかった彼女たちの日常に束の間の静寂が訪れる。
そして、彼女たちはパリの街を出て行く。
パリをあとにするタクシーの車内、クレマンスは糸が切れたように涙を流す。その涙は、父の面影の残るパリを去ることへの寂しさのようであり、未来を見つめて生きていくという決意のようにも見える。このシーンの彼女の横顔はあまりにも美しい。
彼女たちを乗せたタクシーはパリの街から遠ざかっていく。「ケセラケラ」の音楽に乗せて。
ケセラセラ
成り行きに任せるだけよ
先のことなんてわからないわ
一寸先は闇。明日、何が起こるかすらわからない、実体のない未来を信じることは容易いことじゃない。だから、自分の手の内にあるものを握りしめるように、いまある確かな生活にしがみついていたくなるけど、暗闇の中でさえ、臆することなく未来を見つめる彼女たちのような希望が、わたしたちの未来にも宿っているのかもしれない。と、この映画を見ながら思う。その希望を胸に抱き、わたしは新たな場所へと足を踏み出す。
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やないももこ
1990年生まれ。写真家。写真を撮るかたわらで、映画にまつわるウェブマガジン「Filmground」のメンバーとして文章も書いている。