──15歳の頃にオーストリア皇妃エリザベートの伝記を読んで、彼女の人生から悲哀を汲み取ったそうですね。ティーンという若さで、彼女の人生の華やかな部分ではなく、裏側に興味が沸いたのはなぜでしょうか?
直感的なものでしたが、それはたぶん、自分がいつも傍観者だったからだと思います。森に入って、木を話し相手にしていて、遠くから人間たちを観察しているような幼少期を過ごしていました。 だから、15歳で“シシィ”の伝記を読んだとき、完璧にも見えるプリンセスのイメージの裏側にある、大きな悲しみを自分も一緒に味わったような感覚があったんです。その微笑みの裏には、彼女の目には、いったい何が浮かんでいるのだろうかとずっと考えていました。
──理解する前に、共感していたんですね。
そうですね。まだ子どもだったので、本当に理解することはできなかったけれど、私が共感したのは、最も人間的な部分で、生きていたいと切望する気持ちでした。私たちは、この人生が何を意味しているのかわからないし、自分がどこから来てどこへ行くのかわからないのに、ただ一つ、生きたいという思いがどういうわけかある。たとえ私がプリンセスでなくても、“シシィ”と同じようにそれを渇望していたんだと思います。先生から何かをするように言われたら、「どうしてこれをしなきゃいけないんですか?」といつも説明を求めるような、「もっと意思を持って生きたい!」という衝動がある子どもだったので(笑)。
──40歳になった“シシィ”は、女性として期待される振る舞いにもう疲れていて、不機嫌で、かなり反抗的な態度を見せています。監督であるマリー・クロイッツァーとの会話から、こうしたキャラクターがつくられていったのでしょうか。
俳優としての私の経験から引っ張ってきたものが大きいかもしれません。『ファントム・スレッド』がアカデミー賞にノミネートされたとき、今回の作品に比べると大規模にキャンペーンを行う必要がありました。自然の中で育っていた私が突然、アメリカのマスコミという、超フェイクで表面的な世界に身を置くことになって、好きになれなかった。プレミアに行ったら、いつも「はい!」と笑顔で答えなきゃいけないのも、本当に辛くて。みんなが持っているイメージに押しつぶされそうになる状況が、エリザベートと少し重なったというか。マスコミや周囲から、「女優なんだから、自分がどう思われているかを常に意識して、美しくなければいけない」と言われたけれど、私はそんなことに全く興味がなかったから、「あなたが私を好きかどうかとか、美しいと思うかどうかとか、そんなことはどうでもいい」と言い続けました。まさに、パンクのような反抗心を感じていたんです。