上京して8年目、 高層ビルも満員電車もいつしか当たり前になった。 日々変わりゆく東京の街で感じたことを書き綴るエッセイ。
前回記事:『Vol.16──上野』
シティガール未満 vol.17──御茶ノ水
聖橋から秋葉原方面の神田川を見下ろすと、ちょうど中央線と丸ノ内線が交差するところだった。都会の濁りきった川の水を直視すると萎えるので、目を細めて日光を反射した水面のきらめきだけを掬い取るように眺める。でもこれって、汚い部分を見ないようにして表面の綺麗なところだけを消費しているみたいだな、と、どこか後ろめたく思いながら。
その左の道には、数本だけ植えられた桜が脇役みたいに咲いている。私はさだまさしの『檸檬』で聖橋から放り投げられる喰べかけの檸檬を想像したあと、この御茶ノ水の景色を初めて見た日のことを思い返した。
大学1年と2年の間の春休みにバイトをしていた会社に行く時だったから、その時もちょうど桜が咲いていたはずだが、全く記憶に残っていない。あの頃は桜なんか気にも留めていなかったせいだろうか。いや、幼い頃から学校に馴染めなかった私にとって、新学期を迎える不安と固く結びついていた桜は、目を背けたくなるものだったのかもしれない。
そんな言わば桜の呪いが解けたのは、東京に来て3度目の春だった。
先述の御茶ノ水駅近くの会社をクビになり、中目黒のベンチャー企業でライターのバイトを始めて1年が経とうとしていたある日。退勤後にあてもなく散歩をしていたところ、なぜだかいつもより人通りが多いことに気が付き、人々が行く方へ流されるように歩いて行くと、目黒川にたどり着いた。
ライトアップにより幻想的に浮かび上がった夜桜と、缶ビールやスマホを片手にだらだらと歩く人々。
「ここで立ち止まらないでください! 桜は他にもありますから!」と叫ぶ警備員。
無数のぼんぼりに書かれた「目黒川桜まつり」の筆文字。
そうか、だから今日は人が多かったのか。それまで東京で花見に行くこともなかった私は、目黒川辺りの桜並木が都内有数の人気スポットだということすら、全く知らなかったのだ。
人混みに混ざって見上げてみると、まるで夜空一面に桜が咲いているような密度の高さと、花びら一枚一枚の存在感に圧倒された。そんなふうに桜をちゃんと見たこと自体、初めてだった。そこから夢中になって、1人でひたすら眺めながら30分くらい歩いてから帰った。
集団生活を強いられない大学生活を送る中で新学期の不安が薄れつつあったことも手伝って、この日を境に、桜を見ると素直に綺麗だなと思えるようになったのだった。
この時はスマホで数枚写真を撮っただけだったのだが、その次の年は、せっかくなので良いカメラで撮影してみようと思い、一眼レフカメラを持って目黒川に行った。
ところが、良い写真を撮ろうとするあまり、カメラばかりに集中してしまい、桜を十分に味わえなかった気がした。しかも帰って写真を見返してみると、もちろん私の技術不足もあるのだろうが、どれも実物の美しさには到底及ばない。去年の記憶の中の桜の方が、遥かに美しかったのだ。
普段からあるゆる物の写真を撮ってSNSにアップしたりしているが、その行為によって、目の前のものを肉眼でしっかり見て、味わい、記憶に刻むことをおろそかにしているのではないかと、私は少し怖くなった。
記録には残っても記憶には残らない。その一眼レフは父から「感性を磨きなさい」と譲り受けたものだったのだが、写真を撮ることで磨かれる感性もある一方で、写真を撮りすぎることで鈍る感性もあるのかもしれないと思った。
ちゃんと記憶に残すために、その次の年はカメラを持たずに見に行った。スマホでもほとんど撮らなかった。私は愕然とした。それでもなお、初めて見た時の感動には届かなかったのだ。
なぜだろう。考えた結果、写真を撮ることに意識を取られると感動が薄れるというのも間違いではないが、何も期待していない状態で偶然美しいものを見た時が最も感動するのではないかという結論に至った。綺麗な桜を見に行こうと日時や場所を決めて、綺麗だと思うことを知っていて足を運ぶ。それでももちろん綺麗だとは思うが、心の準備ができてしまっていて驚きがないぶん感動は減る。
何も期待していなかったからこそ、あの時の目黒川の桜は美しかったのだ。
辛い時に街でたまたま流れてきた曲に救われたとか、散歩中にたまたま見つけて入ったカフェがすごく美味しかったとか、道でたまたまぶつかった人と恋に落ちたとか、きっとそういう類のものだったのだ。
あれからどこの桜を見ても、やはりあの時ほどの美しさは感じられない。今年の桜はすでに散り始めている。私はもうわざわざ桜を見に行く気にはなれなかった。予定を立てて行く時点で、超えられない壁があるのを知っているから。
でも、何も期待せず偶然接することで感動が増すとすれば、逆に言えばこの聖橋から見える地味な桜だって、その時の状況やタイミングによっては、初めて見た目黒川の桜以上に美しいと感じることがあるのかもしれない、と思った。
桜の名所でもなんでもなくても、例えば民家の庭に咲く1本の梅の木でも、ベタなところで言えばアスファルトに咲くタンポポでも、時には人の心を動かしたり、大切な思い出になったりするはずだ。その時、その花には最上の美しさが宿るのかもしれない。
そういう瞬間を、せめて見逃さないように生きたい。
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絶対に終電を逃さない女
1995年生まれ、都内一人暮らし。ひょんなことから新卒でフリーライターになってしまう。Webを中心にコラム、エッセイ、取材記事などを書いている。『TOKION』Web版にて『東京青春朝焼恋物語』連載中。
Twitter: @YPFiGtH
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