バングラデシュにルーツを持つ、シャララジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
前回記事「引用との関係性〜感覚の成立〜」はこちら。
バングラデシュにルーツを持つ、シャララジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
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映画やドラマでよく見かける、男の子が寒がっている女の子にジャケットを貸してあげるシーン――。10代のころは素敵に思っていたが、日に日に、そして今強く思うが、あれができること自体が男と女の大きな違いだ。なぜ同じ温度で男は耐えることができて、女は寒く感じるのか。ここからこの世の重大な差異は始まっていると確信した。
私は幼い頃、性という概念を理解していないというか意識していなかった。大人になったら家から見えていた高いビルを増築して、雲を触ることが夢の一つだったようなファンタジーな子供だった。不思議なことに、当時自分が視覚的にイメージしていた、その増築されたビルから雲を触る私の大人像は、髪の毛が生えていないスーツを着たおじさんだった。このイメージ自体、大人になって考えるととても興味深く、私の頭の中では「ビルを建てる人=エラい人=スーツを着た中年のおじさん」という図式で、雲を触れる私は自然とエラい人にならなければいけないので、自分の性がどうかはおいておいて、私は将来そのエラいおじさんみたいな見た目になるのだろうと。スーツを着て、頭はもうツルツルで、お腹が少し出ていて、そんな姿になるころには雲を触ることができるのだろうと思っていた。それほどに子供には男女の境界線がなく、女の子はおませさんというけど、私はおませはおませだったが、なんというかおませの角度が鋭利だった。一人っ子だった影響もあり、女の子がどうだなどについては考えたことはなかった。
思春期になって女と男の差を知ると悔しかった、私だって野宿して、寒さに強い身体が欲しいのにと。私より高い位置から世界を、ライブで背伸びをせずとも会場を見渡せて羨ましい。美味しいご飯を私よりもたくさんの量と種類を食べられていいな、高いところからジャンプしても着地できるその運動神経。ムカついたりしたら殴りかかったりして、殴り合って、口の端とか切れちゃったりしてもいい感じになる。そんな力強さに支えられた肉体の「男」という存在がロマンを持つのは当たり前だ、だって身体的に可能なことがこんなにも違うんだから(私が人より身体的に不器用すぎるだけかもしれないが)。女は冷え性に打ち勝ち、寒さに耐え暖を取らなければならない。野宿をしようと思っても危険で、ライブの中でダイブしようと思っても、胸が邪魔で手放しに飛び込めないためらい。
最近見たレオス・カラックス監督の『ポンヌフの恋人』という映画は、そんなことを思い出させてくれた。ある浮浪者とそこに新しく参入した女の浮浪者の恋の話だ。二人は自由な、というより、お互いのことを考えないエゴのぶつけ合いのような恋愛を繰り広げるが、美しい瞬間を共にする。ここからはネタバレになってしまうかもしれないので注意だが、二人の美しく自由で激しい恋愛は女が突然いなくなることによって終わる。春から秋の間一緒に橋の上で過ごしたその女は、冬を目前に姿を消し、自分の主治医である男性と結婚する。その後雪の日のクリスマスイブに、浮浪者の恋人に再び会いに来てあの頃のような1日を過ごすが、女は朝には帰る。はじめ、この女は都合が良くて冷たく、合理的で、ロマンのある男を捨てたように見えたが、自分の身に代えて考えてみると、身体の差異を思い出すほどに女にはその選択以外無いように思えた。
snap by Sharar
先日友人が自分がロマンチストである話をしていた。友人は男だが、自分のロマンについて話している中、私は身も蓋もない現実的な言葉を突きつけてしまっていた。というか普段からの自分の経験や周りの話を総合すると、女の方が口喧嘩も強く、現実的で、それは女の方が実は論理的であるからなのではないか?と私は考えていた。だが彼がとても論理的な人間でありながらも、ロマンを持っていることを私は疑問に思って、どうして論理的なのにロマンを信じて追い求めることができるのか?と聞いた。彼の言葉は私にとって目から鱗だったのだが、自分は論理的であるから、何か物事があると論理を敷き詰めて攻略を図る。寸分の狂いもなく論理を敷き詰めたその先が、予期せぬものに壊されてしまう瞬間にロマンを感じる。ロマンを感じるためにも、自分は日々論理を敷き詰めるという内容だった。人は論理を越えるためにまず論理を敷き詰めることがあり、というか論理を敷き詰める人の気持ちは論理を越えたいところからはじまっていたとしたら、それは18世紀に科学者が神の存在を証明するために、物理を解明し世界を科学しはじめた構造に似ており、私は心の底から感銘を受けた。論理の時点では女も男もなく、どちらも論理的であることができる。でも、論理を予期せぬ事象で崩され、ロマンを感じるためには外部(他者)との関わりというか、圧のようなものが必要で、それが無い一人の状態では、予期せぬ事態は絶対に起こせない。自分だけの一人の状態では予定調和を超えることができない。私は論理が崩された瞬間というよりも友人の話の全体像にロマンを強く感じた。私はいつも壮大なものにロマンを感じてころっといってしまう。論理はもしかしたらそれを越えた先のロマンのための概念なのかもしれない。ロマンは意外にも論理の先に許されている。そこに辿り着くことができたら男も女も関係ないが、リーチのしやすさは圧倒的に耐久性を持つ男の肉体を持った方にあるのだろうというところまでは理解した。
snap by Sharar
ロマンチックなかわいいものは女で、ふわふわでピンクな色合いなものと思われがちだが、先にロマンチックであり続けることができるのは、耐久性のある肉体を持った「男」だと思う。女の全ての現実は冷え性だ。私たちは冷たく青くて、赤くなるために温め守り続けなければ火はすぐに消えてしまう。ロマンチックというのは意外にも、もっとハードコアで無骨で、力強く燃えていて、論理的で青い存在の上でないと成り立つものではないのかもしれないと私は思った。美しく繊細な線に見えるものが実は奥行きがあってしっかり地層があったようなイメージだ。この地層を忘れてはならない。
でもそれでも私はライブで裸で客席にダイブしても、地面でいくらゴロゴロしてもそんなに傷つかない肌を持つような、殴り合っても簡単に壊れないような、肉体を越えて女のロマン、もしくは男女の中の新しいロマンの在り方が成立する世界を期待している。
バングラデシュをルーツに持ち、東京で育つ。国籍や人種の区別にとらわれない存在感で、モデルとして、雑誌や広告、ランウェイなどに登場。2020年には〈LOEWE〉のキャンペーンモデルに抜擢された。最近では文筆業も盛ん。
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