南アジアにルーツを持つ、シャララジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
前回記事▶︎「vol.12 旅の記憶、荒川の土手」はこちら
シャラ ラジマ「オフレコの物語」vol.13
南アジアにルーツを持つ、シャララジマさん。見た目で容易に規定されることなく、ボーダレスな存在でありたいと、髪を金髪に染め、カラーコンタクトをつけてモデル活動をしている。“常識”を鵜呑みにしない彼女のアンテナにひっかかった日々のあれこれをつづった連載エッセイ。
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食欲の秋と呼ばれるくらい豊かな食材溢れる収穫の時期にはお祭りが多い。そんな季節に私は初めて神輿を担いだ。
わたしの中でお祭りといえば、まず、南アジア圏のテレビで見かけたヒンドゥー教の祭り、鮮やかな色の粉をかけ合う、その名も「ホーリー」だ。ついで地元北区王子の近く十条の「お富士さん」は、実際に体験した初めての祭りだ。初めて読んだ本も日本語だし、初めて行ったお祭りも日本のものという共通点付き。日本のお祭りの趣旨も目的も全くわかっていない中、この祭りでは1kmにわたって屋台が並んでいて、私たちはとにかく甚兵衛を着て、その道をぐるぐる往復する。中坊の女子の目的は永遠にぐるぐるすることであわよくば好きな先輩と学校の外で遭遇することだった。まだなんにもわかってない私は、先輩たちを一目見てきゃーきゃーいうのがお祭りなんだなくらいの認識でいた。ただ屋台に灯る暖色の明かりは、問答無用で心がわくわくさせるので、それから毎年何かしらのお祭りと花火は行った。
本格的にお祭りを渇望したのはコロナ禍だった。当たり前のようにそばにいたあなたの大切さに気づけなかったわと心が震える少女漫画の展開のように、自分の中の祭りの存在の重要性に気付かされた。いつまた会えるかわからなくなってから気づく祭囃子の音の中毒性、あふれる人々を掻き分けて進む活気。暑い中、汗をだらだらかきながらも酒で火照った頭が朦朧とする感覚。
神輿担ぎは朦朧そのものだった。ある日、実家が町の商店街で居酒屋を経営してる友人から「シャラ、神輿担ぐの興味ない?」と誘われ、即答で引き受けた。浅草や祭りが有名な街では、神輿に触るのに3年はかかるという噂を知っていたので、まずは修行からかなという意気込みで挑んだ。しかし友達の地元の小さな祭りだったので、商店街組合に入っていたら、法被さえ着ていれば誰でも神輿を肩に乗せることが出来るパターンだった!ありがたいことに、友達の家族は商店街の皆さんと同級生だったりして繋がりがあり、神輿の右前の部分を陣取ってくれていた。そのおかけでわたしはなんと初めてにして、最前列を担がせてもらった。神輿は10〜15分担いで練り歩いたら休む。休憩所には酒とご飯が用意されている。それを飲み食いしたら、また再び担いでをなんと4時間も繰り返しながら商店街を練り歩く。一度担いでもう満足だわ〜と思ってたわりに、休憩所で飲み食いするたびにもう一度、もう一度と神輿を担ぐ回数を増やしていった。飲んで、食べて、担いで、飲んで、食べて、担いで。このループを繰り返していたら途中からトランス状態に入ったようで、気がついたら到底無理だと思っていた4時間が経っていた。夕方から始まり、夜にかけて盛り上がりをみせる人々は一心不乱に滝汗をかきながら担ぎ続ける。だんだんと大きくなっていくエイサー、オイサーの掛け声にお酒の酔いも回ってどんどん活気づく。おじさん、おばさん、お兄さん、お姉さん、みんなにもみくちゃにされながら私もアドレナリン大放出して、毎度担ぎ続ける。完全にリミッターが外れて、鍛冶場の馬鹿力が発揮されていた。一体どこに隠れていたのかと思われるほどの湧き上がる自分の体力。最終的には地元のおじさんに根性あるね〜と褒められるくらいまでは頑張り尽くしてしまった、あまりにも祭りが向いていたわたし。掛け声、担いで、お酒飲んで、練り歩くそのループは人を朦朧となるほど興奮させて祭りは出来上がって行く。はじめ行った王子のお富士さんでも屋台を永遠にぐるぐるしたことがよぎって、祭りとはループ音楽のようなものかも知れないなと思った。私は祭りと音楽の中を永遠にぐるぐるしていく。
Photo&Text_Sharar Lazima