パルコ、ラフォーレ、ルミネ。毎シーズン、めくるめくファッションのトレンドを手に取れるものにしてくれるのは、いつだってファッションビルだ。街のざわめき、肌で感じる同時代の空気、友達とのおしゃべり。ファッションビルの広告のヒストリーには、「いま・ここ」を生きる私たちのファッションがある。
クリエイティブディレクター小池一子さんに聞きました!《「表現」になったファッションと広告》とは?

クリエイティブディレクター小池一子さんに聞く!
「表現」になったファッションと広告「伝達」が主だった広告が、「表現」になったのは初期の70年代に入ってからです。表現者がCI=企業のアイデンティティづくりに関わるようになったのです。山口はるみさんや石岡瑛子さんといった、強いイメージを作るクリエイターはこの流れにぴったりでした。はるみさんのエスニックなファッション画と健康なヌードをあわせたくて、でもアンダーヘア問題にぶつかり沢渡朔さんの写真が救ってくれたこと。見る人には通じるでしょうとコピーを単に「PARCO感覚」としたこと。いろいろな思い出があります。当時は、カタカナの肩書はまだめずらしい時代。スタイリングもデザイナーや編集者がやっていました。私はスタイリスト時代を予感しさまざまなクリエイターのスタイリング案を雑誌連載、公募もしたら山口小夜子さんが登場するなど、現実が夢とないまぜで動いていた黎明期です。
パルコの創業者である増田通二さんは、変化しつつあった消費文化において、繊維産業しかも小売がどう変化すべきかを考え、「ファッションビル」という形態を発明しました。そこで、小さな一室で洋服を作っていたデザイナーたちに、彼らのアイデンティティを守るからビルにショップを出してほしいと提案したんです。そんなデザイナーたちとのコネクションには、彼らの多くが60年代からの友人だったことが役に立ちましたね。三宅一生さん、川久保玲さん、山本耀司さんなどリーダーを含めての話です。
このブランドのアイデンティティがとりわけ重要で。小さいスペースで自分たちの世界観をしっかり表すためには、ショップの空間がとても大事になる。それで、ブランドごとに異なるインテリアが並ぶ、ファッションビル独自の光景が生まれました。インテリアデザイナーが果たした役割は大きいと思います。
そんなふうに、ファッションビルのイメージづくりには、広告はもちろん、出店するブランドやインテリアデザイナーなど、多くの表現者が関わっていました。その後に続いた他のビルを見ても、やっぱりクリエイターのものだなと感じます。クリエーションとアイデアと経済が遭遇できた幸せな時代だったのでしょう。
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こいけ・かずこ≫ クリエイティブディレクター、十和田市現代美術館館長。コピーライターとしてキャリアをスタートさせ、1980年には「無印良品」の創設に参画。日本初のオルタナティブ・スペース「佐賀町エキジビット・スペース」(〜2000年)を創設し、大竹伸朗、森村泰昌、杉本博司らを国内外に送りだす。その他、ヴェネチア・ビエンナーレ国際建築展 日本館など展覧会も多数手がける。主な受賞に毎日デザイン賞、日本文化芸術振興賞など。
Cooperation: PARCO, Laforet HARAJUKU, LUMINE, NEWoMan
Text&Edit: Satoko Shibahara, Satoko Muroga