©Marica Rosengard
ティーンエイジャーが抱える性、人間関係、未来についての悩みをリアルに描き、第38回サンダンス映画祭でワールドシネマドラマ部門観客賞を受賞した『ガール・ピクチャー』。ジェンダークィアなジェネレーションZの少女たちのジェットコースターのように不安でとっ散らかった日々を、愛しいものとして受け入れる本作。これまでも女性たちが主導するストーリーを生み出してきた監督アッリ・ハーパサロが、思春期の女の子たちの映画を撮った理由とは?
©Marica Rosengard
ティーンエイジャーが抱える性、人間関係、未来についての悩みをリアルに描き、第38回サンダンス映画祭でワールドシネマドラマ部門観客賞を受賞した『ガール・ピクチャー』。ジェンダークィアなジェネレーションZの少女たちのジェットコースターのように不安でとっ散らかった日々を、愛しいものとして受け入れる本作。これまでも女性たちが主導するストーリーを生み出してきた監督アッリ・ハーパサロが、思春期の女の子たちの映画を撮った理由とは?
──原題「Tytöt tytöt tytöt」は、フィンランド語で女の子たちを意味するそうですが、どんなシチュエーションで使われるフレーズなのでしょうか。
基本的に、何か悪いことをしたときに、大人が言葉巧みに女の子を罰するときに使うフレーズです。ため息混じりに「Tytöt tytöt tytöt……」みたいな感じで。私の世代の女性たちは、多くの場合、大人の、特に男性から見下したような口調でこう言われることに慣れているんです。長い間、言ってもOKとされてきた言葉なんです。
──「これだから女は…」みたいなニュアンスですかね。
そうですね。この映画を作り始めたとき、プロダクション・アシスタントから、たとえば、高校生役の俳優たちを「女の子」と呼んではいけないと言われました。そのフレーズがあるおかげで、フィンランドでは大人の女性に対して「女の子」と呼ぶのは軽蔑的だとされているんですね。若い女性と言うべきだと。でも、私は断ったんです。なぜって、その表現が軽蔑の意味を持っていると私は考えていないから。
──「女の子」という言葉のイメージをポジティブなものとして捉えていると。
はい。だから、彼女たちが素晴らしくて偉大だと思うときに言っていました。どうしてか、「女の子」が取るに足らないとか重要でない存在と思われているからこそです。
──この映画を作った理由は、共感できる女の子が主人公の物語がないと感じていたからだそうですね。フィンランドは男女平等な意識が強い国という印象がありますが、それでもフィンランド映画界では、男性視点のストーリーが主だったということなのでしょうか。
その通りです。2014年にこのプロジェクトを始めたとき、これは映画にする価値がある、語るに値する物語だと資金提供者に売り込む必要がありました。そのくらい女の子が主人公の作品が少ないんです。なぜなら、女の子というキャラクターが重要ではないとされ、真剣には受け止められない物語に、何百万ドルもつぎ込もうという人はあんまりいなかったからです。
もう一つの理由は、多くの場合、映画制作者は自分が知っていることについて語りますよね。もし映画製作者のほとんどが中年の男性であれば、ほとんどの場合、彼らの話をすることになる。だから、映画を作る人を多様化する必要があるんですよね。伝える物語を多様なものにしていくために。
──ティーン時代の物語というと誰もが通過したものとしてノスタルジックに描く選択もあると思いますが、本作は昔を振り返るというより、変わっていく未来の方を向いている作品のように感じました。
「なんてキュートなの!」と大人がかわいがるようなものにはしたくないとは思ってました。ティーンエイジャーだった頃に私たちが求めていような、キャラクターたちが観る者を導いてくれる作品にしたかった。遠くから冷めた目で見たり、ノスタルジックに映る眼鏡をかけたり、上の方から見下ろしたりされない、重要な存在として尊敬され、愛される女の子のキャラクターで画面を埋め尽くしたかったんです。
──#MeTooを経て、近年は多くの女性のフィルムメイカーが物語を生み出していますが、8年の制作期間で状況はかなり変化したと感じますか?
確実にしていますし、変化し続けてほしいなと思います。ただ、今、女性のフィルムメーカーや女性のストーリーに勢いがありますが、遡れば、女性の監督の活躍はずっとあり、そもそも初の映画監督と言われるアリス・ギイは女性です。なので、99%の男性クリエイターに対して女性が一人という比率ではなく、私たち女性もメインストリームとされる日が来ることを願っています。
この映画ももっと早く制作を進めたかったのですが、プロデューサーがなかなか見つからなくて。そうしたら、#MeTooが起こったんです。#MeTooは私たちの考え方に大きく影響しましたし、自分の偏見にも目を向けることができるようになった。こうした世界の状況、女性たちの勢いに助けられたところは大きいですね。何年か前ならサンダンスの上映がきっかけで世界に知られるようにはならなかったかもしれません。
──もともとのアイデアは、脚本のイロナ・アハティさんとダニエラ・ハクリネンローナさんが生み出したものだそうですが、どのような役割分担で作品にしていったのでしょうか。
基本的に、彼女たちが草稿を書き、私がそれを読んでコメントし、三人で会話をし、それで原稿を書き直して、ということを数年、繰り返しました。思春期の経験にまつわる、知りうるすべてのことを話し合い、議論しましたし、映画の中で女の子やクィアのキャラクターがどのように表現されているのかについてもよく話をしました。
──10代らしく混沌とはしていても、人と違うことで自分を恥じることがない主人公のミンミ、ロンコ、エマの3人がすごく魅力的でした。どのようにキャラクターを作り上げていったのでしょうか?
映画の中の彼女たちは、勇気があったり、大胆だったりするように見えるかもしれません。でもそれは、私たちが現実でも女の子たちはそうだと思っているから。なのに、映像というフィクションの中では、多くの場合、そんな風には描写されません。たとえば、登場人物がレズビアンだとしたら、カミングアウトするシーンなど、周囲からのジャッジに対応しなくてはいけないとか、何らかのトラウマがあったりするように描かれがちです。
でも、私たちは、主に男性目線のフィルターにかけられた映画の中の登場人物のものとしてではなく、彼女たちがまさに美しい愛の物語を経験しているという真実をスクリーンに映し出したかった。そこにいるのは恋に落ちている人々であって、性的指向を象徴するものではないんです。
──自分はアセクシャルかもしれないと悩むロンコが、自分を知るために快楽をどんどん探求していく姿もかっこいいですよね。性的に活発な女性は恥ずべきとされ、男性の場合は自慢になるという前時代の考えが未だに一蹴されてはいないと思うので。
私もそう思います。一般的に、映画の中で女性が性的に活発である場合、最後に罰が与えられることがほとんどだったんですよ。嫌がらせを受けたり、暴力を受けたり、時には死んでしまうことも。でも私たちは、性的に活発であることは自然な、普通のことだと考えています。男性にとって全く正常なこととされているのと同じように。
──男の子や男性も脇として登場しますが、有害な男性性のあるものとして強く描かれてはいなくて、それがこの物語を少しユートピア的に見せているのだと感じました。嘘っぽいということではなく、安心できる理想的なものとして。
フィンランドでも未だにこの世代の女性がセクハラや冷やかしを受けたり、上から目線や軽視されるような目に遭ったりしている状況は常にあると思います。でも、私たちは現実の状況を悪化させたくなかったので、そういった描写をあえて取り除きました。だから、間違いなく、現実よりもちょっと美しい世界ではありますね。
──そうしているのは、映画が社会をより良くすることができるものだと信じているからですよね。
もちろん。大きなスクリーンに映し出されれば、軽視されることのない女の子が存在する。もし若い頃に、人生がそんな風になる可能性があることを見ることができたら、現実でもそれが叶うかもしれない。
──俳優の年齢が若いことから、親密なシーンのためにインティマシー・コーディネーターを起用されたとか。
まず、インティマシー・コーディネーターとのワークショップから始めました。自分の仕事内容やどのようなテクニックがあるのかを説明してもらったんです。フィンランドではまだ新しい取り組みで、インティマシー・コーディネーターを起用した3番目の作品だったので、みんな慣れていなくて。それから、親密なシーンの振り付けを俳優と私と一緒に作っていくというリハーサルをしました。俳優が主体で決めるのではなく、みんなで一緒にやることで、それぞれが自身の責任を自覚できる。多くを語らなくてもいいし、話したくないことは話さなくてもいいけれど、決して「こんなはずじゃなかった」とならないように確認することを重要視しました。
それから、この映画でとても大事だったのは、裸のシーンは要らないと決めたことです。個人的に、人間の体はタブーではないと思っているので、映画におけるヌードには反対ではありません。ただ、キャストがまだ若く、未成年の17歳から18歳の女の子を演じているということから、裸を見せないことが適切で自然だと思いました。「どう見えるか」ではなく、「どう演じるか」ということを考えたときに、もし、俳優がカメラの前で裸になるとすると、自分がどう見えるかをどうしても意識してしまうので。
──演技に集中するための安全な空間を作るための選択だったんですね。
そうです。私たちが彼女たちのプライベートな部分を見なければ、彼女たちは心配する必要はないので。演出の主要な側面のひとつは、安全な空間を作ることだというのが、私の信念なんです。
──本作は、好きなことを諦める必要はないということを教えてくれる作品でもありますね。夢を追いかけながら恋愛したっていいわけだし、自立したくても甘えたっていいわけで、うまくできなくてもいいし、不完全でもいいんだと。それは思春期に自分が言われたかったことでもあるんでしょうか?
そうやって作品を表現していただけて嬉しいです。本当に、思春期は非常に雑多で不完全なものですよね。だから、当時は、そう言ってもらいたいと思っていました。女性は幼い頃から、正しい女性になるためには、とても狭い道を進まなきゃいけないということを思い知らされる。
たとえば、そこそこの笑顔は必要だけれど、振り撒き過ぎてはいけないとか、少しは話した方がいいけど、おしゃべり過ぎてもいけないとか。常に、自分自身の存在をキュレーションしているような感覚がある。そうすると、完璧にしなくちゃと感じるようになっていく。私も思春期はそう思っていましたし、おそらく多くの若い女性がそうあろうとしてきたと思うんです。だからこの映画では、不完全さを祝福したくて。私はパーフェクトなものを信じていません。人は常に変化し、不完全な存在だから、完璧であるということは不可能じゃないですか。それに、完璧なんて全く面白くないでしょう? この映画を作るとき、自分の中で唱えていたマントラが、「不完全さにこそ人生がある」でしたから。
──現在5歳の息子さんと2カ月の娘さんの子育て中だそうですが、本作で女の子たちを見つめているように、自分とは異なる時代に生きている子どもたちとして、お子さんたちを捉えられるものだと思いますか?
そう思います。この映画の若いキャストに関して言えば、彼女たちも私が20歳のときとは全く異なる種類の世界に住んでいます。たとえば、自分の限界について、自分が何をするか、どのような振る舞いを受け入れるかといったことを、より明確に言語化し、実践できている。
私は、男性に何か不適切なことを言われたとしても、冗談や沈黙で逃げてきた世代ですが、彼女たちは「私に何言ってくれてんの?」と表現できるわけです。少なくともフィンランドでは、そうして言葉に出せるようになったことは変化だと私は感じます。今では、人々はミソジニーの意味を、偏見の意味を理解し、人間がどうやって特定の考え方をするように条件付けられているかを理解し、自分の行動をより分析するようになりました。だから、私の子どもたちが成長したとき、バックラッシュがない限り、人々は自分の行動について、さらに意識するようになるのではないでしょうか。
『ガール・ピクチャー』
子どもと大人のはざま、17歳から18歳に差し掛かる3人の少女、ミンミとロンコとエマ。3度の金曜日で、ミンミとエマはお互いの人生を揺るがすような運命の恋をし、ロンコは未知の性的快感を求め冒険する――。
監督: アッリ・ハーパサロ
脚本: イロナ・アハティ、ダニエラ・ハクリネン
出演: アーム・ミロノフ、エレオノーラ・カウハネン、リンネア・レイノ
配給: パルコ、ユニバーサル映画
2022年/フィンランド/100分/カラー/スタンダード/5.1ch/原題:Tytöt tytöt tytöt/PG12
配給:アンプラグド
2023年4月7日(金)より新宿シネマカリテ、YEBISU GARDEN CINEMAほか全国順次公開
©️ 2022 STARMAN PRODUCTIONS, LLC. ALL RIGHTS RESERVED.
1977年生まれ。フィンランド出身の監督・作家。 ニューヨーク大学ティッシュ芸術学科で芸術修士号、アールト大学の映画学校でテレビと背景美術の学士号を取得。 2016年にデビュー作 『Love and Fury』で、自分自身の主張を見いだしていく女性作家の姿を描いた。2019年には、7人の脚本家と監督が製作した、ジェンダー バイアスと構造的な権力の誤用について描かれた 『Force of Habit』 に参加。 この作品は世界で高く評価され、ユッシ賞 (フィンランド・ アカデミー映画賞)の作品賞、監督賞、脚本賞 にノミネート。 さらに2020年には北欧理事会映画賞を受賞した。 3作目の長編映画である『ガール・ピクチャー』でも、強い女性を主人公とした作品を作り続けることに力を注いでいる。
Text&Edit: Tomoko Ogawa